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退職のススメ ハラスメント上司の下で苦しんでいる人は、いますぐ会社を辞めてしまおう

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はてなブックマークで話題になっていたが、ハラスメント上司と無能マネージャーをめぐる話である。
 
この女性の行動通り、ハラスメント上司の元でどうにもならない人はいますぐ会社を辞めてしまった方がよい。
 
 
 
 
上司がハラスメントをする場合、長い間働いた会社なのになぜ正社員を辞めなければいけないのか、会社を辞めてしまって次の就職先がすぐ見つかるだろうか、悪いのは私の方ではないのだからなんとか復讐かまたはこの上司をどうにかしてやろうとか、裁判沙汰にしてやろうとか、いろいろな思いが浮かぶと思う。もちろん、どのような行動を取ろうが本人の自由なのだが、一番良い方法がすっきりすぐに会社を辞めてしまうことである。
 
 
この記事にもあげた通り、エナジーバンパイアや巨大組織との戦いはほぼ不毛な結果になる。
 
もうひとつの観点は、あなたの勤めている会社が大企業であれ、中小企業であれ、これからは一社に勤める長さより、むしろ、転職回数が多い方が優遇される時代になってくるのだ。
 
もちろん、耐久性がなかったり、仕事がいい加減や周りにひどいことをして、会社を転々としているような人間は論外だが、真面目に働いているひとの場合、これからの時代は、企業の寿命がどんどん短くなる時代だ。
 
 
全世界的に企業の寿命がますます短くなる。そうすると、ひとつの会社で長く働くひとより、企業の倒産やトレンドの変化や新しい転職先への適応力が高いひとの方が能力の高さが認められる。
 
 
自分が大企業に勤めているとしても、神戸製鋼東芝、タカタのようにすぐに会社がダメージを受けて倒産してしまう時代だ。
 
結局、セクハラやパワハラをうまく対処できない会社はこうなるのだ。
空気が澱んでいて空気が悪い会社なのだ。
こういったおっさん達が偉そうにしている会社ほど一瞬で倒産する時代なのだ。
 
これから日本は人手不足が続く。つまり、あなたの転職先は引く手あまたなのだ。
女性が活躍できる会社もいくらでもある。キラキラ女子が輝くITベンチャーもいくらでもある。
世界に目を広げれば、就職先や働き方などいくらでもある。
 
自分で会社を興してもよい。
自分が社長になるなど考えられないかもしれないが、資本金0円で会社が作れる時代だ。
 
自分で会社を経営しながら、サラリーマンもしながら、複数の会社のアドバイザーとして働いているというくらいの働き方の方がちょうどよい。
 
複業、ダブルワーク。ひとつの会社に縛られる必要などまったくない。
 
これから、ハラスメントを許す会社が世界的に淘汰されていくだろう。
日本社会のようにセクハラおっさん達が多い会社の方があぶない。ボコボコ潰れるだろう。
 
例えばブラック企業に勤めているひともいますぐ辞めたほうがよい。
あなたがハラスメント店長の元で働けばはたらくほど、経営者はまだ大丈夫と勘違いしてしまうのである。あなたがいなくなるとお店が回らないと店長が一生懸命引き止めてあなたは良心の呵責に苛まれるかもしれないが心配する必要はまったくない。あなたが辞めるだけで店長も救われるのだ。
 
ブチ切れてあなたが辞めたら殺すぞという勢いで引き止めた店長も半年後はこういってくるのだ。
 
俺も辞めることにしたよ。こんなお店、無理だよ。新しいひとを入れてくれとなんども上に訴えたがまったく聞いてくれなかったよ。こんな会社、俺もすぐに辞めてやるよ!
 
ジル・ドゥルーズノマドという概念を生み出してからもう50年である。
 
アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

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クリエイティブ・クラスの世紀

クリエイティブ・クラスの世紀

 

 

でも述べられている通り、これからは、ノマドの時代である。
 
あなたに必要なのはいますぐ会社を辞めてあなたが活き活きと働ける会社へいますぐ移ることなのである。あなたは不安があると思うが、いくらでもそういう会社が見つかるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

社会人になる前に社会の常識として人を洗脳する方法を学んでおいたほうがよい

 
 
ゼリア新薬工業の新入社員だった男性の自殺に関して、労災が認定されていたことが明らかになった。
亡くなった男性にはお悔やみ申し上げたい。
 
 
同時に福井の中学2年生の男の子が教師に殺害された。自殺という体裁の良い言い方をされているが、これは他殺である。
 
このような事件を目にするたびに、洗脳について、もっと多くのことが知られるべきであり、悲劇を救ってあげられる両親や友達のアドバイスが彼らを救ってあげられたのではないかと常に感じる。
 
新興宗教ブラック企業、ブラック新人研修、部活のいじめ、パワハラネットワークビジネス自己啓発、これらは同一の原理に基づいてなされており、免疫や知識のない若者達を生贄にする。
 
 
基本的なことはここに書かれているが、人間を洗脳する技術については、かなり多くのノウハウが常に確立されている。興味のある方は苫米地博士が多くの本を出している。
 
現代洗脳のカラクリ ~洗脳社会からの覚醒と新洗脳技術の応用

現代洗脳のカラクリ ~洗脳社会からの覚醒と新洗脳技術の応用

 

 

 苫米地博士自体が洗脳技術を利用した本を多数出しているので、これもどうかと思うが基礎技術を学ぶ上では良い入門書になるだろう。

 

宗教ってちょっと怪しいよね。この前、友達から久しぶりに連絡があったと思ったらネットワークビジネスの勧誘だった。世の中の多くの人はこういうときに友達や両親に相談し、なんとなく怪しいという直感をもとに踏み込まずに事なきをえる。
 
ちょっと怪しい、この感覚はすごく重要なのだが、無垢で誠実で正直な性格のひとほど、一度、この世界に入るとのめり込みやすい。
 
もちろん、宗教が悪いわけでもないし、ネットワークビジネスのすべてを否定するわけでない。しかり、その原理を知らないでいると、詐欺に巻き込まれやすい。社会に出る前に重要なのは、宗教やネットワークビジネスを司る根本原理の理解である。
 
信仰というのは人間が生きる上で根本となるものである。日本人が勘違いしやすいのは、日本は無宗教の国で誰もが信仰でなく習慣をもとに生きていると思っているがそもそもそれが誤りである。人間は何かを信じずには生きてはいけない。現代社会の日本人の多くが信仰しているのは、科学という信仰であり、民主主義という信仰であり、経済的にある程度の富があれば幸せな人生が生きられるという資本主義という信仰である。
 
宗教と科学やテクノロジーというのは相反するものだと考えているひとが多いが、宗教こそがまさにテクノロジーであり、ほぼすべての宗教は人間の認知構造や生理システムに対するテクノロジーそのものである。
 
例えば、お経というのは人間の心理状態を安定させる周波数のテクノロジーであり、ヨガというのは、あるポーズをとる事で思考を停止するためのテクノロジーである。宗教施設の建築構造は、特殊な世界観へ誘う事により、人間の心理状態すなわち、認知構造をだますことで、余計なことを考えずに信じることや祈ることに専念させるためのアーキテクチャによって成り立っている。
 
悪名高き新興宗教として知名度の高いサイエントロジー創始者、L・ロン・ハバードは洗脳技術を学び、人間の心理状態をコントロールするテクノロジーをマスターした。彼は、ビジネスマンだったので、そのノウハウを活かすために宗教ビジネスを始めた。

 

ダイアネティックス―明確な思考を取りもどせ!

ダイアネティックス―明確な思考を取りもどせ!

 

 

 サイエントロジーの本を出版社から買うと勧誘電話の嵐が来るだろうからオススメはしないが、興味があれば、中古本か何かで買うか図書館にでも注文してみるとよい。

 

彼のノウハウは今でも大手企業の幹部教育研修でも使われるほど、人間の心理状態のコントロールに長けている。
 
平安時代初期の僧、空海は、中国へ渡り、密教のテクノロジーを学び、弘法大師として、真言宗を日本で始めた。多くのひとはなんとなく、お坊さんが中国で宗教の教えを学び、日本に広めたというくらいの理解でしかないが、現代社会で例えるならば、彼が行ったことは単身シリコンバレーに乗り込んで、テクノロジーによるマインドコントロールのためのフレームワークとプログラミング手法を学び、それを日本に持ち帰ってITビジネスを行ったということである。
 
今の若いひとに必要なのは、こういった人間心理の状態に関する世の中の様々な構造を知ることである。
 
 
ノーベル賞を取ったことで話題になっているが、行動経済学を学ぶことも重要である。
 
人間は自由意志に基づいて自由な選択をしていると思っているが、多くのひとの行動パターンというのは、特殊なものではない。
 
さすがに中学生にこれを学べというのは酷だが、大学生であれば、理系であれ文系であれ、こういった人間の行動パターンや洗脳技術を学ぶことが、就職したあとの特殊な環境下でのハラスメントに対抗するためのひとつの知恵なのである。

 

俺がお前を全力でぶん殴ればGDPが上がる問題

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GDP至上主義の問題点は下記のように語られている。
 
今日は、俺が俺がお前を全力でぶん殴ればGDPが上がることについて語ろうと思う。
 
ある日、突然、俺が理由もなく、隣のお前を殴る。
 
お前は躊躇する。
 
なんだ、お前はいきなりなんで俺を殴るのだ。
 
その瞬間、GDPが上がるのだ。
 
お前は、まず、病院を呼ぶ。そして、病院の売り上げが上がる。
 
そして、次にお前は保険の契約をする。
 
ある日、突然、隣の人に殴られた時の医療費を保証するいい保険がありますという保険の営業マンの営業トークに則って、契約をする。
 
次の瞬間、弁護士がしゃしゃり出る。
 
ある日、突然、殴りかかったあいつを訴えますか?訴えるといいお金が取れますよ、と弁護士事務所の売り上げがあがり、GDPが上がる。
 
そして、お前はドラッグストアに行き、絆創膏や包帯や色々なものを買い、ドラッグストアの売り上げがあがり、GDPが上がる。
 
そして、武器の会社やセンサーの会社や探偵やアルソックやロボットの会社や大小様々な会社が俺とお前に色々なものを売りつけて、さらにGDPが上がる。
 
資本主義とは結局、ドラッグビジネスのようなものだ。
 
本来、必要のないものを無理やり売りつけ、人々を中毒にし、食わせる必要のないものを喰わせ、ない欲望を無理やり喚起することで、成り立っている。
 
これを延長すると、戦争ビジネスになる。
 

軍産複合体が戦争やるぞやるぞ詐欺で武器を売りつけて商売をする。

そして、戦争があると石油から作った薬が売れてGDPが上がる。
 
 
 
陰謀論のサイトを検索すると、いくらでもこういう話は出てくる。
 
結局、一部の支配層は、そういった麻薬中毒のような世界は市民に押し付け、自分たちは一切、摂取しない。
 
ある日、俺がお前に優しくすると、GDPが一切、上がらない。
 
GDP至上主義というまやかしからいかに抜け出すかが求められているのではなかろうか。
 
今日もまた、アメリカがユネスコを脱退し、きなくさい戦争の気配が漂っている。
 
 
いい加減、我々は資本主義中毒から抜けるべきではなかろうか。
 
 
俺がお前をいきなりぶん殴ることが経済成長という名前で正当化される世の中が幸せな世の中だろうか?
 
いま、求められているのは、資本主義に代わる新たな価値観である。
 

今の日本社会に足りていないのは狂気そのものである

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テレビがコンビニ化し、もはや面白い番組を作れなくなっている。
本来、芸とは狂気と背中合わせであり、ゴッホにしろ、モーツアルトにしろ、精神障害と紙一重であった。現代社会において、テレビで狂気を表現すると市民団体からクレームが来て、ネット上で炎上するしかない。つまりテレビはもう終わったのである。
 
そんな中、唯一、狂気を感じさせる番組ができているのがテレ東、1局である。
 

www.ninoude-punico.com

 
小池栄子松岡茉優假屋崎省吾らが山田孝之の起こす奇跡を見守る、という番組だったのだが、詳細は上記のブログが詳細にレポートしてくれているので、そちらに委ねる。
 
山田孝之は、俳優として唯一、狂気を表現しようとしている稀有な俳優である。
 
赤羽の頃から、この俳優の面白いところはモキュメンタリーの手法を使いながら、正常と異常の間を自由にさまようこのポジショニングである。
 
昔の映画やテレビには狂人が多く出ていた。
 
太陽を盗んだ男にしろ、狂い咲きサンダーロードにしろ、狂気を描いていた
 
太陽を盗んだ男 [DVD]

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狂い咲きサンダーロード [DVD]

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アウトレイジは面白いがビートたけしの映画は暴力を描きながら狂気は年々、薄まっている。
 
花火やソナチネあたりがビートたけしの狂気の最骨頂であり、アウトレイジ石井隆監督の後追いにしか過ぎない。
 
ソナチネ [DVD]

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そして、モキュメンタリーの傑作、ゆきゆきて神軍である。
 
ゆきゆきて、神軍 [DVD]

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山田孝之は、現代版、ゆきゆきて神軍として、テレビ番組の中で唯一、狂気を感じさせる番組づくりをしている。
 
狂気といっても犯罪者を見たいわけではない。毎日、毎日、30人の人を殺して食べていたロシア人夫婦の話や、核爆弾を打つぞと挑発しあう東と西の異常そうなリーダーのニュースを毎日聴いているが、そんなものを見たいわけではない。
 
つまり、現実がエンターテイメントを上回る狂気な世界というのが現代社会である。
 
現実は小説よりも奇なりというが、大衆が求めているのは、物語の想像力であり、壮大な狂気の世界である。
 
イーロン・マスクほどの異常な物語を紡ぎ出せている文学者が少ないのが現代社会のジレンマである。
 
山田孝之君には物語の想像力を生み出せる俳優さんとしてぜひがんばってほしい。

日本経済復活のためには毎年1ヶ月の有給休暇を強制的に義務づければよい

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政府が働き方改革に力を入れていることにより、日本人の働き方に対する様々な議論がなされている。
 
特に取り上げられやすいのが、日本の労働生産性の低さであり、特にホワイトカラー、いわゆるサービス業の生産性の低さが問題になりやすい。
 
 
この記事でも取り上げたが、日本の過剰サービスが労働生産性の低さを招いているという一面があるだろう。
 
政府は、残業規制やプレミアムフライデーの推進などにより、ブラック企業や悪質なサービス残業の取り締まりの強化を行っているが、ほぼ有名無実化しているプレミアムフライデーを含め、残業規制は経済を不活性化し、デフレの温存を招いているように見える。多くの記事で指摘されているので繰り返さないが、残業規制は、残業代の減少、つまり実質給与の低下を招き、プレミアムモルツすら飲めないお父さんが増えている。
 
 
この記事では、すでに日本は先進国でもっとも休暇の多い国になっているのでサボりすぎでないかと書かれているが、これはサービス残業などの隠れた残業時間が一切入っていないので、まだ隠れた残業時間も入れると働きすぎの一面があるだろう。
 

toyokeizai.net

 
ドイツの生産性に学べという本もでていた。
 

 

残念ながら、まだ本書を読んでいないので、近くぜひ目を通したいと思っているが、日本経済復活のためには、残業時間を減らすというような甘い施策では意味がないというのが管理人の主張である。
 
毎年、全会社員に1ヶ月の有給休暇を義務づける
 
これが、日本経済復活のヒントだと考えている。
 
そもそも、管理人は、働き方改革などと国が働き方の方針を示さなければいけないこと自体がナンセンスで、働き方など各自が好き勝手に考えて変えればよいと思っているのだが、ネクタイを外して仕事をするのに政府の大号令が必要な国民性である。国が方針を示さないとことが進まないのであれば、法制化して義務づけすればよい。
 
なぜ、1ヶ月有給休暇を取ると日本経済が復活するのか。
 
まず、そもそも日本経済の状況を簡単に例えるとしよう。
日本経済の問題は働きすぎなことでも働かなさすぎのことでもない。
 
何に対して、一生懸命、働くかである。
 
人間、成果の出ること、将来性があること、拡大していること、夢があること、充実感を感じること、自己裁量権がある環境で働いていて、不満が出ることはあまりない。不満やストレスが出るのは、こんなこと意味があるのかと思うような仕事の内容を裁量権もなく厳しいルールや決まりごとの中で強制的にやらされるからである。あるいは、そういったストレスを溜めた人間関係の中で、陰湿なイジメやギスギスした人間関係に縛られるからである。
 
今の日本経済を例えてみると、こんな感じだ。
 
隣で、自動車が発明されたのに、いつまでも馬車の効率化をはかっている
 
どのような車輪であれば早く走れるか、早く走るためには馬に何を食べさせればよいのか、鞭の素材を何にすればもっと効率良く馬が走るか、そういったことを残業して必死で研究しているのが日本人である。馬車がどうすれば0.1秒早く走ったかどうかをエクセル方眼紙を駆使したグラフで一生懸命資料にし、それをFAXで送って、FAXを送られた方が残業しながら、上司に怒られながらひたすらエクセルに打ち込んでいく。そして、馬の走り方についてああでもないこうでもないと何時間も社員総出の会議を繰り返し、日本人のよいところは勤勉なところであると自画自賛しながら、精神論で馬車を作り続ける。
 
鞭を打たれながら、走っているのは、馬の方か人間の方か。
そして、自動車レースに馬車を出馬させて、圧倒的に敗北する。
 
誰でもわかることだが、本当に必要なことは馬を捨てて自動車を作ることである。
自動車が発明された段階で、どれだけ馬車の研究をしようが無駄な努力にしかならない。勤労を礼賛しようが、おもてなしの精神があろうが、神風を招く精神で努力をしようが、馬車を作り続ける限り勝ち目はない。
 
ゆとり世代のことがよく問題になるが、ゆとり世代は、自分たちが馬車を作らされているのをわかりながら働いているのに、上司より先に帰るなと言われるから不満を持つのである。
 
さて、話が長くなってしまったが、1ヶ月の休暇の話である。
現代の社会に慣れた日本人はそもそも休みを取るのが苦手である。
2、3日、国内旅行をして、温泉に入って、やっぱり家が一番ね、というのが日本人の典型的な休みの取り方である。あるいは、1週間くらいハワイかどこかにツアーで海外旅行をして、日本よりサービスがなっていない従業員を見ながら、日本のおもてなしは世界最高ねと安心するのがせいぜいである。そして、次の日に会社に行って、また愚痴をこぼしながら仕事をする。これが一番、日本人にとって安心感のある休みの取り方なのである。
 
おそらくどこかの党が、一ヶ月の有給休暇を義務づけるという政策を立案すれば、企業、国民ともに大反対が起きるだろう。
 
あれだけ、休ませろと言っていたのに、経済が落ち込むとどうするんだ、一ヶ月も休んで仕事が回るわけがないだろう。日本人はいつの間に勤労の精神を失ったんだ等々
 
つまり、国民全員で馬車を作り続けさせろと訴えるのだ。
 
人間、1ヶ月も休みがあると、色々なことを考える。
2,3日も休めば疲労は回復する。
あとは、暇すぎるので、勤勉な日本人は活動を始めるだろう。
海外旅行にいってもよい。ボランティアをしてもよい。普段できない他業界での短期インターンをしてもよい。奥さんの代わりに主夫をしてもよい。子供と一緒に毎日過ごしてもよい。滝に打たれて修行をしてもよい。普段できないアイドル活動をしてもよい。
 
いずれにせよ、1ヶ月の休みは、人生の見直しにつながるだろう。
 
海外旅行も1ヶ月も海外にいれば、単なるパッケージツアー以外の色々なことが見えてくる。マスメディアの報道とは違った海外のありのままの姿。何カ国も回るのもよいだろう。インドで瞑想を続けた結果、あまりにも日本で働くことが馬鹿らしくなって宗教的な世界に目覚める人も出るだろう。あるいは、短期間、知人の会社を手伝ってみて、そちらの事業の方が面白くて、退職してしまう人も出てくるだろう。主夫をすることで奥さんが毎日やっている主婦業の大変さを知って、家族に優しくなる人も出てくるだろう。何よりも高度経済成長が続く中国や東南アジアの活気のある街並みをみると大きな刺激を受けるだろう。日本はなんて古臭くて時代遅れのシステムで動いている国なんだと感じるだろう。
 
それでよいのだ。それが日本経済復活のための大きなヒントになるのだ。
 
今の日本経済に求められていることは、早く「馬車」を捨てることであり、「自動車」に当たるものを発明することである。毎日、朝から晩まで会社以外の場で過ごさないサラリーマンにTeslaやiPhoneは発明できない。感性というのは、日常生活とは異なる空間から受ける刺激で成り立っている。高度経済成長期が終わり、革新的な商品やサービスを生み出していくことが望まれている時代には、強制的にでも感性を刺激する仕組みが必要なのだ。
 
1ヶ月の長期休暇は、一見、企業にとってデメリットにしかならないように見えるが、実は、企業にとってもメリットがある。
 
まず、属人化された仕事のオペレーション化である。
リクルートなどは意図的に部署移動を行うことで、仕事が属人化しないような工夫をしていると聞くが、1ヶ月くらい誰かが休んでも、仕事というのは案外回るものである。日本企業は今後、グローバル化をしていくうえで、このオペレーションシステムの確立というのが大きな課題になる。いつ、誰が働いても一定のアウトプットが出る仕組みの確立。これができないとグローバル企業にはなれないだろう。相手が外国人だろうが、老人だろうが、未経験者だろうが、一定のクオリティを担保できる仕組みが必要である。言わずもがな、マクドナルドやセブンイレブンはこのシステムで巨大企業となった。あうんの呼吸で話が済んでしまい、忖度が重んじられる日本企業にもっとも不得意なことである。
 
誰が必要な人材で誰が不要な人材かもよくわかるようになるだろう。
不要な人材は辞めてもらえばよい。
逆もまた然りである。1ヶ月休みを取らせたら誰も帰ってこなくなる事業も出てくるだろう。いわゆる馬車を作り続ける事業である。これが会社であれ、事業であれ、もう用がなくなったものである。こういった事業はさっさと廃業させたほうがよい。
 
廃業率と失業率が高くなるではないかという議論もあるが、今の日本社会に必要なことは新規産業の育成である。政府が同時に手厚い新規事業育成のための積極的な規制緩和を行い、セーフティネットの整備とともに成長産業への人材転換を推進すればよい。
 
終身雇用を前提とし、終日、従業員を会社に貼りつけて、宗教的な一体感を生み出して、アメリカのモノマネをひたすらしていれば経済が成長した時代はもう終わった。会社に貼りつけておけば、社員は、隣で自動車が発明されたことに気がつかないだろう。
 
そういったごまかしはもう通じないのである。
 
 

アベ政治を許せない、アベノミクス反対と言っている限り一生安部政権に勝てない話

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枝野幸男氏が新党、立憲民主党を結成した。
 
民主党、民主連合という名称もニュースに出ていたが、最も良い立憲民主党という名称に決まり、リベラルの受け皿の政党ができたことは望ましい。ロゴは軽々しくてまったくイケていないが、民主党民進党に植えつけられたネガティブなイメージを払拭するためにも原理原則を重んじるどっしりとした姿勢を重視して欲しい。
 
希望の党が作った陳腐なPVに比べると護憲左派としての政策を訴える政党の方が信頼ができる。
 
 
「しがらみ政治」や「希望」などというまやかしの言葉ほど危険なものはなく、今度の衆議院選挙の希望の党自民党の争いは、神戸山口組山口組の利権争いですというPVを作ってくれたほうがよっぽど好感が持てるのではなかろうか。
 
ところで今日は、アベ政治を許せない、アベノミクス反対という言葉が安部政権の強化にしか働かないという話をしたいと思う。
 
鳩山元首相が、アベ政治を許せないと沖縄で座り込み抗議を行った。
 
 
鳩山氏は、中韓を含めたアジア諸国による新たなパワーオブバランスの確立という壮大なプランを持っているにもかかわらず「アベ政治を許せない」という言葉に未だに囚われていることが残念でならない。
 
この話は政治だけでなく、ビジネスや個人が生きて行くうえでの処世術としても役立つ。
 
人の悪口を言うひとが多くのひとの信頼を得られないというのは、多くのひとが理解できることだと思う。
 
左派の政党は「アベを許せるか許せないか」を争点として、自民党に対抗しようとしてきた。
 
そして、そのことが、左派の人気をどんどんと失墜していく結果になっていった。
 
およそ、人間で、ひとの悪口を聞き続けたいようなひとがいるだろうか。アベ政治を許せないという何も言っていない空虚な言葉をおばちゃんたちがデモで叫ぶために平成生まれの若い有権者たちは嫌悪感を生み出す結果しか生み出さなかった。この失敗は三宅洋平などの若いアーティストに支持される若い政治家を目指す若者たちにも共通したことが言える。ロック、レゲエ、HIPHOP、およそ多くのカウンターカルチャーは、権力への反発として拡大してきた。だが、この混迷の時代に多くの人が求めているのは、新しい世界のビジョンであり、大きな物語に反発すればよかったほがらかな日本の近代化社会はすでに終わったのである。
 
彼らがアベに反対すればするほど、安倍が神格化され、アベを支持するひとが増える。
これは、悪口を言うひとが嫌いだから他方を支持するという原理ではない。
 
巨大組織に対抗すればするほど、巨大組織にエネルギーを送り続けるという世の中の原理に基づいている。
 
ビジネスも同じで、弊社はGoogleに勝てるような検索エンジンを作るとか、iPodを凌駕するような新デバイスを作り出すと声高々にうたう経営者がいるが、そう言っている時点ですでにGoogleAppleに負けている。
 
勝つ会社というのはそんなことは言わない。
 
勝つ会社というのはまったく新たなビジネスのルールを生み出し、ルールを変え、競合他社とのポジショニングを変えることで勝つ。
 
スティーブジョブスを追い出した時のAppleの競合はMicrosoftであった。MicrosoftAppleのOSを巧みに盗むことでWindowsを生み出し、クリエイティブよりビジネスを重視したビルゲイツの戦略により一気にシェアを奪っていった。
 
この時のAppleの戦略はMicrosoftにどう勝つかという戦略であり、そのルールに従う限りAppleに勝ち目はなかった。多くのビジネスマンにとっては、クリエイティブよりビジネスのほうが圧倒的に重要で、フォントの美しさやDTPというのは一部のクリエイターのこだわりに過ぎなかった。
 
ルールを変えたのは、やはり戻ってきたスティーブジョブスであった。
 
彼は、まず、競合相手がMicrosoftだというルールを変えた。
 
iPod touchを生み出すことで、ソニー東芝、Createive(Zen Playerのメーカー)を競合相手に選んだ。
 
さらに、すぐにiPhoneを生み出すことで、数多の携帯メーカーをライバルにし、AppStoreを生み出すことで、任天堂や数多のカーナビメーカー、電機メーカーをライバルに選んだ。
 
ルールを次々に変えながら、勝っていくのが勝者の戦略である。
 
これは、個人の生き方についても言える。このことを自己啓発本として書いているのが、ロシアの量子物理学者で作家であるヴァジム-ゼランドの書いたこの本である。
 
「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択

「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択

 

 

この一方変わった自己啓発本はエナジーバンパイアとの適切な関わり方を描いている。
 
趣旨としては、あなたが、巨大組織に戦いを挑めば挑むほど、あなたは巨大組織にエネルギーを与え続け、やがてあなたが勝ったとしてもあなたは多くのことを犠牲にし、消耗し、エネルギーを吸われ続けることになるだろう、ということが書かれている。
 
これは、サラリーマンとして会社に不満を持った時の処世術や、両親や不倫した旦那が許せないという人の生き方にも役立つ。
 
今、何かに戦いを挑むことで苦しんでいる人は新たな観点を得ることができるので参考になるだろう。
 
つまり、アベ政治を許せないと言っている限り、アベには一生勝てないだけでなく、アベにエネルギーを与え続けアベを肥大化させていくに過ぎないのだ。
 
大切なのは、ルールを変えることであり、新たな原理原則を愚直に示すことである。
 
枝野氏には、新たなリベラルのビジョンを示して欲しい。
 
リベラル左派を支持する国民が本当に求めているのは、アベにエネルギーを与え続けることではないのである。
 

保毛尾田保毛男は死んでしまった

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フジテレビが「みなさんのおかげでした」で毎度お馴染みの炎上騒ぎを起こしてネットコミュニティに叩かれている。LGBTを侮蔑するようなキャラクターを出して、今の時代にそれはない、トレンドを理解していない、おじさんたちの内輪受け的な懐古趣味が時代と乖離しすぎていて、まったく面白くないと批判されているのである。
 
 
フジテレビの番組作りもネットコミュニティの反応何度も繰り返されたパターンで、もはや既視感しか感じない。
 
一連の経緯も予定調和的とすら感じる経緯となった。
 
 
フジテレビが時代錯誤の価値観に基づいたお笑い番組を作る
弱者に対するいじめだと批判がある
時代がまったく読めていないと批判がある
組織的な抗議がある
会社が謝罪を行う
ネットコミュニティが色々な意見で盛り上がる
 
 
これが、今回の場合は、保毛尾田保毛男でありLGBTであったというだけである。
 
ネットコミュニティの反応は、はてなブックマークやブログを見ればおおよそ理解できる。
 
 
確かに、LGBTの価値観やポリティカルコレクトが尊重される時代にフジテレビの番組作りが時代錯誤であり、新たな時代の価値観と大幅にずれていることは明白である。
 
だが、いっぽうで何か大きな違和感も感じる。
 
これについて書いてみたい。
 
なぜ、違和感を感じるのか。端的にいえば、テレビや芸能に品行方正であることが過度に求められていると感じるからである。この違和感は、昨今の文春砲に代表される不倫スクープとも重なる。
 
元来、芸能とは歴史的に差別と密接な関わりを持って存在してきている。
 
 

 

歌舞伎にしろ、能にしろ、狂言にしろ、差別された人間たちが作ってきた。
 
日本のように民間主導のサブカルチャーカウンターカルチャーとなり、民衆の支持を受けながら拡大してき、政府や王朝の弾圧を受けながら形を変えて定着していき、やがて政府の保護を受けて伝統芸能として維持されていくか、ヨーロッパのように、貴族がパトロンとなって貴族たちを喜ばせるものとしてハイカルチャーの中で維持されてきたかというような文化ごとの違いは存在するか、文化人類学民俗学的なアプローチでは、多くの文化の中で芸能が一般社会とは異なる価値観で生きるアウトサイダー、つまり異常者たちが担ってきたことに異論はないだろう。
 
今の差別という言葉のニュアンスと多少イメージが異なるのは、単純に差別を行う者と差別をされる者という強者、弱者という一方的な関係でなく、「聖」と「賎」が絡み合いながら、存在していることである。自分たちと異なるという人間に感じる「畏れ」はある時には恐怖や畏怖を引き起こし、ある時には崇拝や神聖なるものとして崇める対象となる。
 
歴史を紐解くと障害者が神様として崇められる文化は世界中に多数見られる
 
これは日本だけでなく、どの民族・部族も似たような構造を持っている。
 
文化と両義性 (岩波現代文庫)

文化と両義性 (岩波現代文庫)

 

 

芸能の担い手とは、やくざ者、はぐれ者、異常者、被差別者、巫女、賎民、漂流の民、障害者であり、芸能とは徹頭徹尾、水商売である。
 
ハリウッド映画にはマフィアが密接に関わり、日本でも、芸能界にはやくざが関わっている。興行とはやくざの商売のひとつであり、いまでもそうである。
 
問題は、テレビや映画産業が巨大化され、また、テレビから差別的な構造が巧妙に排除され隠蔽されるにつれて、もはや一般の人たちがそれを当たり前としない風潮すらでてきていることである。
 
つまり、もはやテレビや映画は被差別でなり、権力側だと多くのひとが認識しているということである。
 
 
の記事で述べたように20世紀後半に、テレビが与えた影響はとてつもなく大きい。
 
テレビからカウンターカルチャーが消えていき、吉本興行の芸人が仰々しい顔でニュースを読み上げながらコメントする。歴史的に、差別され、笑われ、滑稽芸として国家権力を風刺しながら民衆の支持を得ていた芸人という存在がそのままの形で存在することを許されず、いまや国家権力に寄り添いながら世の中の流れを解説する解説者となっている。
 
これは、カウンターカルチャーの死である。
 
カウンターカルチャーとは世の中の巨大権力の強烈な否定であり、世間を支配する目に見えない支配構造に対する反逆である。テレビが叩かれ、Youtuberたちがもてはやされるのは、反逆の場がもはやテレビには残っておらず、Youtubeの中にしか存在しなくなりつつあるからである。犯罪スレスレのなんの深みも面白みもないYoutuberの配信でも、ネットの中で支持を受けられるのは、彼らが自分にはできない反逆者として国家権力に反発を行っているからである。カウンターカルチャーを担えなくなったテレビはこのままゆっくりと衰退していくだろう。
 
保毛尾田保毛男事件がネットでこれだけ叩かれるのは、本来、差別されるものであるはずの芸能が、他者を差別する側の権力者側に立っていると多くのひとがみなしているからである。第4の権力であるマスコミが公共の電波という大義の中で権力者として振る舞う。これでは民衆の支持を受けられないことは自明である。
 
畏怖と崇拝の絡み合った感情で畏れを抱かれながら異常者が異常なものを見てもらい金をもらうというのが本来の芸能である。そこには、正常と異常という権力構造と差別が必ず存在し、芸能人とは差別される人種なのである。
 
だが、一般の人たちはそうは思わず、世間の普通の人より良い給料と名声をもらって煌びやか生活を送るひとが、国家権力の庇護のもとで、性的少数者を馬鹿にしている、とみなす。だから炎上するのである。
 
芸能界の中にいると自分たちが決して特権階級などでなく、誰もが、自分たちは被差別者であるという意識は常にどこかにあり、いくら金銭的に成功し成り上がったとしても、明日には一瞬で仕事がなくなる水商売であるという後ろめたさと不安感の中で仕事をしていることだろう。それを一番わかっているのは芸能人たちである。映画監督として世界から名声を得て社長にしたい芸能人や首相にしたい芸能人に何度も選ばれるビートたけしが一番そのことをよく理解しているかもしれない。
 
異常者であるはずの自分たちがいつのまにか品行方正を求められ、社会権力の側に立つことすら求められている。この流れはもはや止められず、国家のプロパガンダ装置としてのコントロールがテレビには求められる。それを忠実に実行し、サラリーマンとして、国民を正しい方向に導くことを求められているのが、ジャニーズのアイドルや吉本興行所属の芸人たちである。
 
異常者が異常者として存在することを許されず、差別はいけませんという建前の中、綺麗好きの国民性とあいまって、社会システムの中で巧妙に居場所を失われていく。ほがらかに馬鹿にされながら、国家としては高度経済成長の中で哀愁とともに国家としては一体感を感じながら成長を感じることができた昭和という時代が遠くなり、もはやカウンターカルチャー自体がどこに歯向かえばよいのかすらわからなくなっている。
 
 
でも取り上げたように、過剰な同調圧力の中で差別か差別でないかを適切に見極めながら行動しないとネットで血祭りにあげられる。国家権力とは別の見えない権力がさらなる同調圧力を増長している。
 
窮屈で困った時代になったなーというのが芸能人たちの本心のはずである。
 
石橋貴明は当時、まだ一般社会から受け入れてもらえずバカにされ差別される対象であったお笑い芸人と、同種の差別を受けていた同性愛者という存在を戯画化し、自らがそれを演じることで日本人に自分たちが正常側に立っていると安心させ笑いに昇華した。
そこにあったのは弱者への愛でありペーソスであり、決して一方的な選別意識ではない。同じコンテンツが30年後に一方的な暴力だとみなされるのは、石橋貴明がもはや権力者だと認識されているからである。
 
違和感を感じるのは、現代社会の中でLGBT差別自体が批判されながらも、どこかそのポリティカルコレクトの批判の中に、異常者そのものを巧妙に隠蔽・排除し、異常であること自体が許されないという別種の窮屈さや許容性の少なさを感じるからである。昭和の時代は差別/被差別という構造が存在しながらも、もう少し多様な異常者が存在しやすいほがらかさも残っていた。
 
過剰なポリティカルコレクトが問題にされるのは日本だけでなくアメリカでも同様である。リベラルと保守の価値観の違いであり、人間がはたして綺麗事なしに他者を差別せずに生きていくことができるのかという現代社会特有の新たな問題提示である。
 
笑いとは、異常なものを提示された際に、正常な人間があいつは異常だと指摘するから成立するものである。ボケとツッコミとは、自分が正常側に立っていることを再確認させて安心させるから成立することである。つまり日本社会という共通の価値観がないと成立しない。
 
ダイバーシティーが求められる世の中では、お笑いにも、別の形の批評性と諷刺性が求められていくだろう。日本はもうガラパゴスであることは許されないのである。
 
これは時代遅れのフジテレビのコンテンツの擁護や昭和は良かったという懐古趣味ではなく、単に日本が高度経済成長期を終え、近代社会として成熟したというだけのことである。フジテレビは新たな時代にあったお笑いを創造する努力をしなければ、やがて、保毛尾田保毛男同様居場所を失うであろう。
 
バブル全盛期とは日本人が同一の幻想に向かって一体感を感じられた最後の時代であり、保毛尾田保毛男が人気だったのは、まだ、その共同幻想が力を持っていたからである。
 
それから30年、保毛尾田保毛男はグローバル社会によって殺されてしまい、共同幻想を維持したいネット右翼たちとポリティカルコレクトをうたうリベラルたちが見えない敵と戦いながら、仮想敵を相手に、別種の暴力をふるうことに熱中している。
 
多様な価値観が大事だと声高々にうたわれる一方で社会全体からはますます巧妙に多様性が排除されていくのである。