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今までであった営業マンの中で過去最高の営業マンの話

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仕事柄、何百人の営業マンの営業を受け、同時に自分自身も何百件のクライアントに営業をしてきた。自分が営業をし、受けていると営業のなんたるかがよくわかる。そして、私が過去、一番営業ができると思った営業マンの話をしたいと思う。
 
普通の人の営業マンのイメージとはどんなものだろうか。
 
・流暢に商品/サービスの説明をしてさらりと契約を取る
・強引にお客さんを説得し、無理やり契約を取ろうとする
・一生懸命、自分を売り込み、情に訴えて契約をしてもらう
 
営業マンのスタイルは異なるだろうが、普通の営業マンはこういうイメージだろうし、営業のできる/できないの差はあっても、一般的には上記のような範囲で営業がなされる。
 
だが、私が出会った最高の営業マンのスタイルはまったく異なっていた。
 
できる営業マンの話をする前に、ちょっとした笑い話として、史上最低の営業を受けた話をしよう。
 
某有名IT企業に問い合わせをした時のことだ。
たいした案件ではなかったのだが、なぜか、その営業マン達は6名で訪問してきた。
案件の規模に比べて人数が多すぎるというのが第一印象だったが(おそらく、一人の営業マンが来るだけで十分な規模だ)、営業マンが多すぎて困ることはないので、まあ別によいかと思い営業を受けた。
 
その中で一番若い営業マンが会社説明を始めた。
 
ああ、これは、新人営業マンの教育研修も兼ねた営業なのだと一瞬で理解した。
 
通常、新人営業マンの営業の時にベテラン営業の先輩や上司が同行して営業を行うというのはよくあるスタイルである。
 
それにしても、2名で十分なのになぜ6名という疑問は浮かんだが、まあ、よいかと話を聞き続けた。
 
そして、その営業トークの中で新人営業マンがやりがちな典型的なミスが発生した。
 
御社と弊社を逆にしてしまったのだ。
 
これは、営業新人マンあるあるネタで、これまで何万回もネタにされてきた間違いである。
 
お、典型的なあるあるネタだと、笑いをこらえながら、話を聞いていた。
 
問題はその後である。その後、1時間の営業トークの中で、その新人営業マンは何十回も御社と弊社を間違え続けて、結局最後まで間違えたままだった。こちらが冷や汗をかきそうな、吹き出してしまいそうななんとも言えない微妙な空気が流れる。よっぽど、指摘してあげようかと思ったが、先輩営業マンの面子をつぶすと思って言わなかった。
 
おいおい、6人も先輩・上司達が来ていて、結局、最後まで指摘しないのかよ!
 
という心の中のツッコミとともに商談が終わった。
 
結局、その新人営業マンだけが最後まで話し続け、先輩・上司営業マンたちは最後まで何のフォローもしなかった。いったい、6人の先輩営業マン達は何のために来たのだろうか。
 
その会社と契約しなかったことはいうまでもない。
 
新人営業マンの問題でなく、先輩・上司たちの無能さが際立った、過去、最低のいまだに記憶に残る珍営業体験である。
 
という、前置きをした上で、本題の過去もっとも営業ができた営業マンの話をしよう。
 
その営業マンは、朴訥とした印象で営業にやってきた。
営業マンという風でなく、システムエンジニアを思わせる風貌だった。
第一印象は、あまり営業ができなさそうだなという印象である。
美男子でもないし、背も高くない、いわゆる典型的なできる営業マンのイメージとは真逆のタイプである。
 
一般的なスタイルで名刺交換をして、営業マンが席に座る。
 
すごいのは、その後である。
 
通常、営業マンが席に座るとその後の典型的な行動は、世間話をするか、会社説明をするか、サービス資料を机の上に出して、なんの話題を切り口に営業トークを始めるか探ろうとする。
 
古典的な営業トークは天気の話をしたり、オフィスを褒めたり、名刺の名前を見て珍しい名前ですね、とか苗字から出身地の話につなげようとする。
 
そのできる営業マンは、そういったことをまったくしなかった。
 
席に座り、資料も出さず、そして、何も自分から話そうとしない。
 
待っていても何も話さない。
 
いわゆる沈黙の間が生まれる。
 
こちらも営業を受けることには慣れているが、こういう営業マンはさすがに初めてである。
 
沈黙の間に耐えられず、こちらから、話を始める。
 
営業マンというのは、よくサービスの説明や会社案内から話をはじめるが、これは新人営業マンのスタイルであり、ある程度の歳をとった営業マンがこういう始め方をすると、営業に慣れていないか、営業ができないかどちらかだという判断が働く。もちろん、こういうスタートからうまく顧客ニーズを引き出すトークに持っていける営業マンもいるが、顧客がなんの話をしたいかをうまく探りながら、営業トークの順番をコントロールできるのがベテラン営業マンの営業スタイルである。
 
問い合わせをする方も、発注慣れしている会社や担当者というのは、事前にホームページからサービスの詳細や競合他社との比較や、その企業の資本関係や取引先について、ある程度情報収集をしてから問い合わせをするので、一般的なサービス説明や会社案内は実はあまり必要ではない。
 
むしろ、事前の調査ではわからなかった点をピンポイントで聞きたいから営業マンを呼んでいるのだ。
 
こちらも世間話などに時間を使う気がないので、端的に質問したいマニアックな質問をする。
 
その営業マンがさらにすごいのは、そうした私の質問に対して、的確な答えだけをただ答える。
 
余分な情報というのが一切ない。
 
顧客が本当に質問したいことを一瞬で理解し、模範解答のような100%それが聞きたかったのだという答えだけを答える。
 
まるでGoogleかロボットかのような対応である。
 
そして、また沈黙の時間である。
 
次の質問をする。また的確な答えだけが帰ってくる。
 
検索するとノイズのような検索結果しか出てこないGoogleよりよっぽどよい。
 
雑談をすることを楽しみにしているような発注担当者には好まれないだろうが、時間を無駄にせず、効率的な商談をしたいというタイプにはこの形が一番よい。
 
聞きたいことにシンプルにもっとも望んだ答えが返ってくる。
 
最短時間で契約することになった。なったというより契約することに決めた。
 
ここまでの的確な営業ができる営業マンなら間違いなく安心して発注できるし、発注後も予想外のトラブルなども起きないだろうと思わせる。そして、その営業マンのせいでなくトラブルが起きたとしても嘘偽りなく、なぜそのトラブルが起きているかを報告してくれるだろうから、発注側としても的確な対応ができるのである。
 
結局、多くの営業マンが信頼されないのは、嘘や大げさや歪曲や誤解や知識不足などの理由で、現場の状況を的確に顧客に報告できないからそうなるのである。
 
顧客が望んでいるのはリップサービスではなく、正確な情報である。
 
彼は、そういった意味で、最強の無言の営業マンであった。
 
同じ無言の営業マンでも過去最低の上司・先輩の無言の営業とは真逆の意味でもすばらしい営業マンである。
 
商談が終わると、彼はフラットに帰っていった。あたかも来る前から契約をしてもらえるかがわかっていたように、フラットな態度で形式的なお礼だけ言って、次の商談のために早く行かなければいけないという態度でさらっと帰っていった。彼ほどの能力があれば、電話で問い合わせた段階で、どの瞬間に契約が取れるのかも一瞬で見抜いていたのかもしれない。
 
まさに、発注側が惚れ惚れとする営業であり、容姿とは真逆に女性にもモテるに違いない。
 
その後、かなりの時が経ち、こちらも立場が色々と変わったので、今となっては、どこで何を売っているかがわからなくなってしまったが、会えるのならまた今でも会ってみたいと思わせる、一生記憶に残り続ける過去最高の営業マンである。
 

日本はおもてなしの精神のせいで没落していく

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東京オリンピック滝川クリステルがOMOTENASHIという言葉をグローバルに広めたいというプレゼンテーションを行い、日本国民は東京オリンピックへの高揚感に包まれた。日本国民の多くは日本文化や日本精神の世界に誇るべき価値観を再確認することになった。

しかし、残念ながら、この「おもてなし」という言葉によって、日本社会は没落していくことになるだろう。

おもてなしが悪いことだと思っている日本人はほとんどいない。そして、もちろん、おもてなしの精神というのは決して悪いものではない。日本に観光に来た外国人は、日本の接客やマナーを体験し、感動を覚え、自国のマナーの悪さを愚痴り、帰国していく。

だが、おもてなしというのは、日本人が考えるほど、世界に支持されている価値観なのだろうか。

日本メーカーが海外進出に失敗する最大の理由は、自国で受け入れられている高品質なものが他国でも受け入れられるだろうという勝手な思い込みである。安全性、安定性、高品質、多機能、こういったものを他国の人たちも求めるだろうという自分勝手な考えにより、サムソンやLGに決して勝てない。

はっきりというとグローバル社会の中流階級が求めているのは、品質の高さではない。
コストパフォーマンスである。
LCCファストファッションが世界的に支持される理由は、セルフサービスでも良いから、そこそこの金額で、無駄のない、適度なサービスを提供してほしいという極めて実用的なバランスなのである。

数年前に、旅館組合が大規模アンケートを行った。
そして、そのデータ分析の結果、興味深かい結果が出た。おもてなしに力を入れれば入れるほど顧客満足度が下がるという相関関係が見られたのだ。これは、一見、何かの間違いに見られた。だが、よくよく調査してみると、宿泊客が求めているのは、中居さんがプライベートな空間や時間に侵入して、布団をひいたりすることではなく、ホテルのように、プライベートな空間や時間を大事にしたいという現代的なユーザのインサイトだったのである。その調査結果のあと、旅館でも、チェックインのあとは過度に接客することをやめてユーザ満足度が上がった。

ここを多くの日本企業は勘違いする。日本品質は海外でブランドになっているから、日本のものをそのまま輸出すれば受け入れられるだろうと誤解する。

そして、同じことが「おもてなし」という言葉にも象徴されている。

はたして世界中の人たちはおもてなしを求めているのだろうか。

まず、日本人が考える、接客やマナーの考え方は他国と異なっている。

例えば、アメリカに行くと、儀礼的なよそよそしい接客よりフレンドリーな接客の方が好まれる。
仰々しく、いらっしゃいませ、とお辞儀されるより、Hiと話しかけて最近どうだい、と世間会話が楽しめる方が望まれる。いくら、相手がぶっきらぼうで、雑な接客態度を取っていたとしても、ジェシーは今日は、ボーイフレンドに振られたから、あんな態度でもしょうがないよなと相手を思いやるというのがアメリカの価値観なのである。

今は急激な変化があると、中国に行くと、店員がお金を投げるのが当たり前であった。そして、レストランの中でも骨や食べかすやタバコの吸殻を床に捨てるのが平気であった。これは、日本人からすると単にマナーの悪さにしか感じられない。だが、いったん、その文化に慣れてしまうと、なんてことはない。むしろ、日本のように細かいことを気にせずにおおらかに日常生活を過ごせるような解放感すら感じられるようになる。

日本人はその点を誤解しやすい。儀礼や儀式的なルールの中で丁寧に物事を行うことが絶対的に良いと教育されるため、それが世界中に通用すると勘違いしてしまう。

まさにガラパゴスである。

おもてなし、という言葉はもう一つの問題を抱えている。

日本社会というのは、一人一人が(世界から見ると)過度な接客をすることが当たり前に求められる社会なので、オペレーションシステムやマーケティングシステムが発達しない。個々人の人的能力に依存することが極めて多いシステムが自然とできあがっている。これは、グローバル社会でなければ、問題ないだろう。しかし、この先、日本だけでなく、世界中が多様性を重んじる社会になるにつれ、問題が表面化していくだろう。

人種や民族や言語や習慣や生まれた国を問わず、誰もが適度やパフォーマンスを発揮し、一定のクオリティのアウトプットを出すためにはどのような仕組みが必要だろうか。日本社会はこういった観点に弱い。あうんの呼吸が美学とされているため、言わなくてもわかるだろうと上司が部下を説教する。「言わないとわからない」のがグローバル社会なのだ。

クールジャパンという言葉が広まってある程度の時間が経つ。そして、東京オリンピックに向けて、ますます政府は日本の良いところを積極的に自国民に宣伝していくだろう。日本の良いところを世界に広めましょうとPRするだろう。

ナルシシズム自閉症が絡み合ったような自国礼賛のテレビ番組が増えている。

裏を返せば、国家のビジョンを誰も提示できていないということである。
高度経済成長を終え、アメリカに追いつけ追い越せで、国民全員が共同幻想の元に幸せな未来に向かって一直線に進んでいた時代が終わった。他国の真似は上手だが、自らビジョンを設計することが苦手な日本社会は、国家のビジョンにすり替えて、おもてなしやクールジャパンという、なんの先進性も設計も戦略もない、幻想的な言葉で国民の自尊心をごまかしながら、2020年を迎えようとしている。

「おもてなし」には、なんの努力も高度な戦略も取捨選択もいらない。なぜなら、それは、ほとんどの日本人が教育の中で当たり前に身につけることであり、自然にできることだからである。

日本社会に今、必要なのは、おもてなしやクールジャパンというなんの意味もないナルシスティックな戯言ではなく、2020年以降、日本社会がどのような国家を目指し、世界に対して、どのようなリーダーシップを発揮していくのかという具体的な戦略である。

20世紀最大の発明とは何か?原子力爆弾・コンピュータ?

20世紀最大の発明とはなんだろうか?20世紀とは西暦1901年から2000年までを指すが、これは一つのディスカッションのトピックのような問いかけなので、正確性は問わないこととする。1800年代後半に発明されたものでも良しとするし、1995年頃から普及がはじまったインターネットも含めてよいものとする。
 
様々な意見があるだろう。
 
原子力爆弾
 
コンピュータ
 
飛行機
 
etcetc……
 
「20世紀最大の発明」で検索をかけてみると面白い。
 
 
教えてGoo」で同じような問いかけがなされている。
 
コンピュータ、抗生物質トランジスタ原子爆弾ダイオード半導体)、化学肥料、インターネット、集積回路
 
 
ビル・ゲイツが「今年読んで良かった本7冊(2013)」で取りあげている「コンテナ物語」では20世紀最大の発明を「海上輸送コンテナ」というユニークな視点を提示している。
 
 
この記事では、20世紀に発明された71の偉大な発明という動画の中から10個を紹介している。
 
そういえば、ポリエチレン(プラスチック)やDNA(遺伝子操作)も20世紀の発明だ。あまりにも、身近な言葉や存在になりすぎて、それが20世紀に「発明(発見)」されたことすら忘れてしまいそうになる。
 
そのほかにもカップラーメン(インスタントラーメン)なんていう意見もある。
 
確かにカップラーメンも食に対する概念を変え、水と火さえあれば狩猟や栽培に頼らずとも人間が生き続けられる手段を提供した偉大な発明のひとつだろう。
 
この問いは何をもって「20世紀最大」を定義するのかによって捉え方が異なるため、正しい答えはない。普及人口、後世へのインパクト、救った人口の数、社会構造の変化への影響力、いろいろな観点があるだろう。
 
個人的には、21世紀以降への影響力とこれからの発展性という意味合いを踏まえると、20世紀最大の発明は20世紀後半に生まれた「コンピュータ」を本命と考える人が多いと思うが、ここではあえて、「テレビ」(マスメディア)としてみたい。
 
テレビは、近代国家の各家庭に潜り込み、国民の世界や自国に対するイメージをコントロールする装置として絶大な影響力を与えた。人間は物語がないと世界を一定の構造をもった対象として認知ができない。このことを利用したのが、ハリウッドなどのエンターテインメント映画だが、「善」と「悪」を明確にわけ、何が善か何が悪かの倫理基準を提供している。
 
これを啓蒙と呼ぶのか、洗脳と呼ぶのか、プロパガンダと呼ぶのか様々な捉え方があるだろうが、いずれにしても、それらは、「認知」に変化をもたらすツールである。
 
テレビが生まれる前、この役割を担っていたのは、宗教施設であった。
 
つまり、テレビは宗教装置なのである。
 
 
一人の首相の先進的な経済政策により、日本社会が復活するという物語
 
一人の狂った若いリーダーが偉大な大国にミサイルを打ち込もうとする物語
 
中東の偏った宗教観をもった若者が世界中でテロを行う物語
 
 
今日もまた、多くの物語がテレビに配信され、なにげなく見ている多くの国民の世界に対するイメージをコントロールしている。見ている方はコントロールされているとは思わない人が大半だろうが、戦時中にはマインドコントロールの研究はほぼ完了しており、そのノウハウが現在まで適用されているのが現代社会ということがいえるだろう。
 
国家のリーダーがもっとも恐れるのは他国からの侵略でなく、自国の国民の反乱だという説がある。自国の国民の支持を失うと国家は自ら崩壊する。
 
そのため、20世紀の大国のリーダーは、共産主義国家が世界中を侵攻し、国民の自由を奪う社会がもたらされるという物語を必要とし、また、大きな共産主義国家が自壊した後には、自由貿易を制限することで偉大な国を復活させるという物語を必要としたのだ。
 
近代国家の完成はテレビによってもたらされ、テレビによって維持されている。
 
中東の狂ったテロリストたちを倒すための物語に乗せられて、とても美しかったシリアという国が廃墟になっていくのを眺めながら、この装置が20世紀の社会にもたらした影響の大きさを考える。
 

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中国は名実ともに世界最高・最先端のIT国家になりつつある

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一部のビジネスマンを除くと、まだまだ多くの日本人にとってITビジネスといえばアメリカのシリコンバレーであり、シリコンバレーが世界で最も進んだITビジネスが行われるエリアであるというイメージを持っている人がほとんどだろう。
 
だが、実際には、現在、世界最先端のITのビジネスモデルを作り出しているのは中国であり、facebookにしろ、LINEにしろ、wechatやアリババの後追いをしているにすぎなくなりつつある。
 
 
 
 
WeChatアプリはアプリ内アプリとしてサードパーティにビジネスを解放し、独自の生態系を作り上げている。これは、FacebookもLINEもできていないことだ。
 
 
そして、Amazonに似たその設計思想をメッセンジャーアプリという現在、最も人々に受け入れられているインターフェイス上で実現している。これから、その仕組み上でChatbotが動き、音声認識が動くだろう。そして、Chatbot同士の連携も世界で最も早く進む国になろうだろう。
 
ALIPAY”芝麻信用"のすごいところは、中国の文化をテクノロジーで変えつつあるところだ。
 
 
中国は元々、内戦ばかりやってきた国である。春秋戦国、三国志の時代から、多民族が戦争を繰り返してきた。この国では、戦争をして奪った者が勝ち、強盗して逃げた人間が得をしてきた国である。そのため、まず相手を疑うところからすべての商習慣が始まる。五人組制度で互いの不正を監視し、不正をすると村八分にあい、狭い国家で悪いことをしても、必ずどこかで噂が広まり、結局つかまってしまう島国の日本とはまったく異なり、隣国に逃げれば逃げ切れる地理的状況が中国文化を作ってきた。日本では性善説で商売が始まり、中国では性悪説で商売が始まる。
 
日本人はよく、中国人や韓国人は嘘つきだと文句をいうが、嘘をつかないと生きていけない歴史が人々の習慣や行動を作ってきた。
 
ところが、現在の中国IT企業が行っているのは、テクノロジーを利用した完全監視システムの構築である。このまま、進めば、中国が世界で一番犯罪者が少ない国になるかもしれないというイメージさえ持たせるような不正ができないアーキテクチャを作りつつあるのだ。
 
日本人からすると、GmailFacebookも使えない中国は民主化を受け入れず、閉鎖的な社会主義国家と映るだろうが、国家政策としては中国が行っている政策の方が正しい。
 
Googleにしろ、Facebookにしろ、ビッグデータを扱うIT企業というのはその国の軍事組織がバックについてる。韓国ならNAVERである。軍事技術の民営化をルーツに持ち、生まれた産業というだけでなく、国の軍事的意向に従い、利用されるツールである。アラブの春Facebookを利用して国家を転覆させたアメリカの軍事戦略であり、決して独裁国家で虐げられた若者が自発的にSNSでコミュニティを作りながら民主化を求めたというような美しい現象ではない。
 
中国はアメリカにそのようなことは絶対にさせない。
 
日本が残念なのは、そのような国家を代表するIT企業の創生に失敗したどころか、そういった軍事とITの関係性さえ理解せずITツールを使っている人たちが大半だという状況を招いていることだ。これは教育の問題であり、GHQの愚民化政策が現在まで続いていること以外の何者でもない。
 
日本も世界を代表するITインフラを生み出す可能性はあった。
TRONという国産OSがWindowsに変わって世界を席巻している可能性があった。
しかし、日航機事件で技術者たちが抹殺され、日本がITビジネスで世界を代表する企業を生み出す可能性は閉ざされてしまった。
 
おそらく、製造業で日本に勝てないことを理解したアメリカが次の国家政策としてITビジネスを選択した時に、日本に巨大IT企業が生まれる芽は徹底的に摘まれたのだろう。(※日本でもLINEががんばっているじゃないかと思う人もいるかもしれないが、残念ながらLINEのバックはサムソンであり、韓国の軍事産業である)
 
ウォーラステインが述べているように、覇権国家というのは、オランダ→イギリス→アメリカと移動してきた。
世界システム内において、ある中心国家が生産・流通・金融の全てにおいて他の中心国家を圧倒している場合、その国家は「ヘゲモニー国家覇権国家)」と呼ばれる。ウォーラステインによれば、ヘゲモニーオランダイギリスアメリカの順で推移したとされる。ただし、ヘゲモニーは常にどの国家が握っているというものではなく、上記三国の場合、オランダは17世紀中葉、イギリスは19世紀中葉、そしてアメリカは第二次世界大戦後からヴェトナム戦争までの時期にヘゲモニーを握っていたとされる。この内、イギリス・アメリカに関してはヘゲモニー国家であったことにほぼ異論はないが、しばしばオランダに関し、その優位はヘゲモニーと呼べる程には至らなかったとも考えられている。
 

世界システム論 - Wikipedia

 

面白いのは覇権国家が西へ西へと移動していることである。アメリカの西といえば日本、つまり日本は世界の覇権国家になる可能性を持っていたが、おそらく、日本を飛ばして中国が次の覇権国家となるだろう。
 
リーダーシップを取るのが苦手な日本人の国民性か、アメリカが最も恐れている日本の軍事力を育てないためのアメリカの占領政策かはわからないが、日本は覇権国家にならないという選択肢を取った。それどころか、東電にしろ、郵政にしろ、日本のインフラビジネスは民営化という名の下に解体されていく運命にある。おそらく次はアメリカの国家戦略のもとにNTTが解体されるであろう。
 
ITに関して言えば、日本もアメリカもレガシーシステム既得権益が大きすぎてもはや中国のようなドラスティックなITの進化を望むのは難しいだろう。そして、日本と同じような高度経済成長と世界の工場としての製造業の中心地となった中国はソフトウェアの分野でも世界の最先端をいき、IoT時代の覇権を握るだろう。
 
自動車産業のディスラプトが始まろうとしている今、日本の弱体化を防ぐ国家戦略を中国から学ばないと、日本は覇権国家になることができないまま、没落国家になるしかなくなるだろう。

※世界最先端のIT国家はエストニアであるという説もあり、それはそれで、まさにその通りなのだが、今回は、経済規模と影響力という観点から中国を取り上げた。エストニアの独自性についてはまた別の機会に取り上げたい。

国家という幻想。ヘイトスピーチとは己に自信が持てない人間が発する承認欲求の発露にすぎない。

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嫌韓や嫌中という言葉が一般化されて随分経つ。街中でヘイトスピーチのデモが繰り広げられ、それに反するデモが続く。
 
一見、自国を愛する人間が他国や他民族に対する排他的な主張を行っているように見える。だが、残念なことに彼らが行っていることは国家という幻想によりかかった己の自尊心の穴埋めにすぎない。
 
在日はどうとか中国人はどうだとか大声で叫ぶ人間の半分は韓国にも中国にも行ったことがない。そして、残りの半分はお金をもらってやっているだけである。
 
全く同じことが他国にもいえる。中国や韓国で反日運動をする人間たちは政府やマスコミの作り上げた日本という幻想に対するイメージを作り上げ、自国の偉大さというベールで、己のふがいなさや自信のなさを覆う。覆わなければ、誰も承認してくれないというやり場のない不安に襲われて仕方がないのである。
 
男とつきあったことのない女は、男ってみんなこうだよね、と同性に共感を求める。女とつきあったことのない男は、女は信じられないとか、女はみんな馬鹿だと自己を正当化する。生身の異性と接したことがないからリアルに想像できないのである。そして、人によっては、己が作り上げた幻想が肥大化しすぎて、リアルな相手の行動との差が大きくなりストーカーになる。彼らがストーキングしているのは生身の相手でなく、自分が作り上げた妄想である。
 
自国に対するアイデンティティというのは、多くの場合、親との関係性に原因がある。親に認められなかった子供時代の穴埋めが愛国であり、嫌韓であり、嫌中である。つまり、これは極めてパーソナルな行動なのである。
 
2chに今日も多くのヘイトスピーチがあふれる。中国人はこうだ、韓国人はこれだから困る。そういった書き込みをする多くの人間は中国人の友達も韓国人の友達もひとりもいない。多くの友達がいれば「中国」「韓国」という幻想は融解していく。中国人や韓国人という人間はいないのだ。ひとりの人間がいて、その人間が中国や韓国という土地に生きているに過ぎない。
 
国家や民族について排他的に語る人間がいれば、彼が語っているのは極めてプライベートな親との関係性だと捉えればよい。あるいは恋人ができない、仕事に就けない。そういった自己のプライベートな問題のすり替えと思えばよい。
 
つまるところ、彼らは自分を承認してほしいだけなのである。
 

登美ケ丘高校ダンス部のバブリーダンスがパロディにしているのはバブル時代でなく現代社会である

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登美ケ丘高校ダンス部のバブリーダンスが話題になっている。
 


【TDC】バブリーダンスPV 登美丘高校ダンス部 Tomioka Dance Club

 
昨年あたりから、平野ノラ、ブルゾンちえみwithBとバブルをパロディにした芸能人が人気になっている。トレンドは30年周期でリバイバルされるという現象の通り、2017年は1987年のリバイバルがもてはやされ、1990年のバブル全盛期に呼応するように2020年の東京オリンピックを待ち構える日本社会は、株価も20,000円台の大台に乗り、あたかもバブル再来という雰囲気となっている。
 
失われた20年しか経験していない若者たちからすると、バブル時代の現代日本とはまるで異なる価値観が新鮮であり、ユニークに映るのだろう。
 
そして、それをバブルを経験した親たちとその子供たちが話題にすることでバブルリバイバルブームが生まれている。
 
そのような中、登美ケ丘高校ダンス部のバブリーダンスが生まれた。このMVの面白いところは一見、バブルをパロディにしているように見えて、実は現代社会のパロディとなっているところである。
 
バブル時代のダンスと登美ケ丘高校ダンス部のバブリーダンスを比較してみるとわかるが、登美ケ丘高校ダンス部のバブリーダンスは追い立てられるようにすべてのダンサーが機械的な動きで踊っている。これは、バブルの時代には見られなかった動きである。
 
ジュリアナのダンス映像をみるとわかるが、この頃はまだ各自が自由なスタイルで踊っている。
 
 
ディスコでのダンスが画一的な動きになっていったのはパラパラの時代からである。腰で踊ることをやめて手で踊りだした。盆踊りもそうだがこの手の踊りは日本の踊りに特有の動きである。
 
つまり、日本社会はバブル崩壊までは個人を尊重する傾向が見られたが、その後、急速に日本回帰が始まり、また全体主義的傾向に変化し始めたといえる。
 
バブル時代というのは同時に校内暴力が最も問題となった時代でもある。
学校という全体主義的価値観を押しつけられ、それに対する反発がカルチャーを生み出した時代でもある。
 
90年代に入り、校内暴力は急速に解消されていった。圧力をかける学校という存在がなくなっていった。皮肉なことに、それと同時に全体主義への回帰が始まった。
 
登美ケ丘高校ダンス部のバブリーダンスはプライベートな活動であり、誰から全体主義を押しつけられたわけでもない。しかし、ダンサーたちは北朝鮮マスゲームのように画一的な踊りをしている。
 
そこには、バブルのような狂乱の喜びの雰囲気を感じながらも、本当に狂乱に興じてよいのかどうか不安で仕方がない深層心理が表現されているといえる。彼女たちが自由なスタイルで踊り始めた時、日本は再度、狂乱の日々を迎えるのかもしれない。
 
 

依存症はギャンブルだけではない。気がついたら陥っている依存症について

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ギャンブル依存症、薬物依存症、ショッピング依存症、インターネット依存症、セックス依存症アルコール依存症……
 
依存症とは、ある偏った認知構造がもたらす「生活に悪影響をもたらす症状」と定義してもよいと思うが、上記に挙げたような依存症は名前がついているからまだ認識しやすい。
 
ギャンブル依存症や薬物・アルコール依存症はすでに社会福祉や医療の観点からのサポートシステムも出来上がっており、本人がその気になれば手厚いサポートが受けられる。
 
セックス依存症も、これまであまり認知されていなかったが、様々な芸能人やアスリートの告白により知名度が向上してきた。これまで個人の性的嗜好とみなされていた行動が心理的な歪みによってもたらされていることが認識されてきたといえるだろう。
 
問題があるのは、まだ名前もついていない依存症の方だ。
 
これらの依存症は、あまりにも多くの人間がかかっているため、依存症とすらみなされないことの方が多い。
 
例えば、家族依存症という依存症がある。
 
自分の親や子供、妻や夫に過度に依存してしまう症状である。
親や子供といっても所詮は他人である。夫婦といっても所詮は他人である。
この感覚をもたず、まるで子供を自分の一部であるかのように扱ったり、夫婦だからこのくらいするのが当たり前だろうと誤解してしまう。これは、依存症の一種である。親しき仲にも礼儀あり、という言葉の通り、自分以外のひとは尊重すべき他人であり、わかりあえないのが当たり前なのである。これは家族だけでなく、上司や部下、同僚などにも同様のことがいえる。
 
これを誤解すると、他人のことを「このハゲー」と恫喝するような人間になる。
偉そうにしているが、相手に甘えすぎなのである。
 
政府依存症という依存症もある。
 
これは、困ったら政府がなんとかしてくれると考える依存症である。
残念ながら、この先、政府がなにかしてくれるという考え方のまま生きているとどこかでしっぺ返しを食らうだろう。
日本死ねと言ったひとがいたが、日本は死なないし、日本死ねというくらいでは世の中何も変わらない。自ら立ち上がり、メディアを作り、世の中を巻き込み、政治家になり、なんとか世の中を変えようと思って始めてなにかが変わる可能性が出てくる。現在のような少子高齢化社会が生まれている時点で政府の国家運営はある意味で失敗している。失敗しているものに期待しても仕方がない。期待するほうが悪いのだ。政府に頼らずに、自らが政府を作る生き方を模索すべきである。
 
メディア依存症という依存症もある。
 
これは、メディアのいうことを鵜呑みにしてしまい、自分の頭で考えることをしない依存症である。メディアに書いてあることはマスメディアであろうが、インターネットメディアであろうが、そのまま信用してよいような情報はほとんどない。昨年からフェイクニュースが話題になっているが、一種の皮肉であろう。世の中のニュースというのはすべてフェイクニュースしか存在しないのだ。フェイクニュース同士がフェイクだフェイクだと罵り合っているのが、メディアであり、ゲッペルス以降、世の中をコントロールするためのノウハウ、つまりプロパガンダというのが、メディアの本質なのである。もっとも重要なことはメディアには決して出ない。自分の足と目でなにが真実かを見抜く力を身につける必要がある。
 
会社依存症という依存症もある。
 
会社依存症とは、会社という組織に過度に縛られた生き方をする症状である。この先、会社なんていつ潰れるかわからない。天下の東芝がこのような状況になっている世の中だ。メガバンクだって、公務員だって、大学や病院だって安泰ではないだろう。会社に頼るような生き方はもう通用しない。
 
金銭依存症という依存症もある。
 
金銭依存症とは、お金に執着する依存症ではない。お金がないとなにもできない、お金があれば大丈夫だと感じてしまう依存症である。残念ながら、お金の価値なんてすぐに変わってしまうものである。ハイパーインフレ、国家のデフォルト、世界恐慌、あと数年以内に世界はリーマンショック以上の大暴落を経験するだろう。その時、信用できるのはお金ではなく、どのような状況でも生きていけるサバイバル力だ。
 
依存症を克服して、己の足で大地に立って生きていこう。