愛国にこだわるバカ、外国に憧れるバカ
だが、愛国心と外国に憧れるバランスが悪いひとは、抽象的な幻想にのめり込んでしまい、本質が見えなくなってしまう。
日本が好きで好きで堪らないあまり、海外の価値観を否定し、ヘイトスピーチにのめり込み、伝統に少しでも反する価値観を全面的に否定する。実はこういうひとが見ているのは本当の日本の姿ではない。自分の妄想の中で作り上げた幻想の日本像であり、ナルシスティックな己の自尊心そのものである。
ここでも述べたように、人間は自分の妄想にとらわれやすい。仏教の教えが無になれというように、自分の苦しみとは自分が作り上げた妄想によって陥る罠である。そういう状態に陥ったときのコツは相手や周りを素直に何も考えず、「観察して」「見る」ことである。
同様のことが海外に対する憧れについても言える。
自国に対するトラウマがあるひとは全面的な自国批判に陥りやすい。例えば、日本に帰ってきたばかりの帰国子女はまず、日本社会でいじめられるとことから青春時代が始まる。
アメリカはこうなのに、イギリスはこうなのに、日本の、陰湿で甘えが多く、自我が確立されていない曖昧な価値観にイライラし、絶望的な気分を味わう。
だが、他国礼賛にすがってはいけない。どの文化や国にもいいところと悪いところがあり、日本人はこういうところがダメだといえばいうほどあなたは孤立していく。
愛国にこだわるバカ、外国に憧れるバカ。これはグローバル社会以前に陥りやすい罠であり、21世紀を生きる私たちが継承すべき価値観ではない。
伝統と革新の考え方に関して、すばらしいプロジェクト「WAFRICA」を例に挙げてみたいと思う。
例えば、日本の伝統文化を担うひとたちは、伝統文化を変えずに継承することが伝統文化の保存だと勘違いしやすい。だが、実はそうではない。伝統文化をそのままの姿で継承することはその文化の衰退にしかつながらない。本当に継承すべきは「考え方」そのものであり、「アウトプット」の「プロダクト」そのものではない。
そのことを一番わかっていないのが今の着物業界である。
デービッド・アトキンソンが指摘している通り、昔の着物は普段着であり、価格も適切な価格であった。
ところが、着物業界は洋服の波に押される一方の高度経済成長期の中で、革新を生み出すことができなかった。着物業界が行ったことは利権を作り、組合と師弟制度を作り、新しい試みを行うものを排除し、最後には、押し売り商法やサクラ商法で150万円の着物をおばあちゃんに売りつける悪徳商法に頼った。
つまり、腐ったのである。
着物✖️ジーンズや、ナイキと着物のコラボ、着物とモードの融合、ユニクロ✖️着物、あらゆるチャレンジングな可能性があったにもかかわらず、業界はそういったものを一切、排除してきた。
その結果、もたらされることは、着物の衰退であり、伝統工芸を担うひとたちの減少であり、優秀なクリエイターたちの幻滅による業界からの撤退である。
このままでは、誰も着物など着なくなるだろうし、着物を作れるひともいなくなるだろう。
「WAFRICA」とは、新たな価値の創出である。
日本とアフリカのコラボということをきちんとすばらしいプロダクトにしたところがすばらしい。
着物業界が本来、やるべきはこういうことであり、こういうことができなければ、着物に将来性はない。
日本とアフリカのコラボを行うとどうなるか。
残念ながら、あなたは、日本人とアフリカ人から村八分にされ、袋叩きにあう。
これは、日本の伝統ではない。これはアフリカの伝統ではない。
そういった愛国のバカにいじめられ、排除される。
つまりは、蝙蝠の扱いを受けるのである。
だが、繰り返すが、これからの時代をになうのは、ディアスポラである。
椎名林檎が優秀なのは、音楽としてJAZZを選んだところである。
凡庸なプロデューサーなら、音楽の選定に、だれもが思い浮かべる日本の伝統音楽や、クールジャパンという文脈で理解されるわかりやすいゲームやアニメやアイドルの音楽を選んだだろう。
だが、椎名林檎は、あえて、日本文化と言われたときにだれも思い浮かべないであろう、JAZZを選んだ。
これこそが、新たな日本のイメージに対するチャレンジである。
WAFRICAと同様、国境を越え、アイデンティティをずらし、ステレオタイプな自国のイメージを崩し、崩壊させていく。
これこそが21世紀に求められていることである。
文化の盗用が問題になるのは、盗用そのものでなく、ステレオタイプなもの(しかも間違いやすい)をただ単に使うから問題になるのである。
愛国一辺倒でなく、海外への憧れ一辺倒でなく、ステレオタイプを覆す新たなクリエイティブ、時代が求めているのは、そういったものを生み出せる人材である。