宙を見つめて動かない老人の話
昔、中国に住んでいた頃。
日本の高度経済成長期のように、街中で建設工事が進み、常に街には埃が舞っていた。中国は平野が多く、空気が悪い。
1日中、街を歩き続けると、喉と目が痛くなり、シャワーを浴びると黒く汚れた汗が肌を伝って落ちていった。
中国の公園は面白い。
老人たちが集まって、将棋を打っている。
その将棋を周りの老人たちが眺めながら寸評を行う。
中国の面白いひとつの現象が、何かイベントがあるとよってたかって見物客たちが集まり、ああだこうだと言い争いがはじまるところだ。
言い争いといっても、決して誰も手を出さずにあくまで口頭弁論で争うというのが中国のよいところだ。
こいつの打ち手はいい悪い。それはどうかな。その次にその手はないだろう。
アイヤー!ハオラ(好了)!メイウェンティ(没問題)!
ひとびと、つまり野次馬たちがくちぐちに論評し、笑いながら、声を大きく様々な主張を声高に訴える。
訴えの正当性が認められたほうが勝ちだ。
野次馬たちは多数決で言い争う。
ただし、ラピュタと違って、誰も相手を殴ったりしない。
日本とは違う中国の習慣を楽しみながら、いまでも忘れられない景色がある。
公園で、宙を見つめながらまったく動かない老人がいるのだ。
老人はただ、宙を見つめ考えている。
何を考えているかはわからない。
もしかすると、何も考えていないのかもしれない。
日本ではこういったひとはほとんどいない。
かつてはいたのかもしれない。
公園で宙を見つめ動かないひとがいると周りのひとは心配するだろう。
体調でも悪いんですか、大丈夫ですか、何をしているのですか。
動かないことで、まわりのひとは不安を感じ、ついつい声をかけてしまうのが日本社会だろう。
つまり、日本では、意味もなく、公園で宙を見ながら哲学的なことを考える自由すらないのだ。誰もが、仕事をしていないとおかしい。ホームレスさえ、あくせく働いている。
なぜ、なにもしない自由がないのだろう。
中国にそういった老人がいるのは共産主義の影響だろう。
共産主義時代、中国にはこういった老人がいっぱいいたにちがいない。
働こうが働くまいが給料は変わらないのであれば、さぼって宙を見ているだけで、給料をせしめたひともいっぱいいたに違いない。
それは、よいことか悪いことかはわからない。
中国は資本主義へ舵を切った。
おそらく、こういった老人が宙を見つめる自由もなくなっていくのかもしれない。
あの老人はなにをかんがえていたのだろう。
家族のことだろうか、宇宙のことだろうか。遠い過去の壮大な文明についてだろうか。やがて来る未来のことだろうか。明日、どうやって生きればよいかという苦しみだろうか。音楽のことだろうか。タバコがないからどうやってひとからもらえばよいということだろうか。
また、あの老人に会えるのであれば、聞いてみたい。
あなたは、いま、なにを考えて宙を見つめているのですか、と。