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シン・ゴジラの憂鬱。東京がゴジラによって壊滅する日

シン・ゴジラの地上波放送があり、話題になっているので、今日はシン・ゴジラを批判してみようと思う。

 

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同様の論旨で批判を行っている記事が必ずあると思って、シン・ゴジラ批判の記事を検索してみたのだが、なかなか見つけられなかった。

 

おそらく、似たような方針による批判記事もあるとは思うが、探しきれなかったので思うところを書いてみよう。

 

シン・ゴジラについては、まず骨太の批判を探すのも難しい。

 

まず、多いのはカヨコに対する批判だ。

・カヨコにリアリティがない
石原さとみの英語が微妙
石原さとみの演技が浮いている

 

確かに、カヨコのキャラクター設定については、キャスティングも含めて多々問題を感じる。

 

だが、所詮、瑣末な問題である。

 

カヨコ=式波(惣流)・アスカ・ラングレーと考えれば、カヨコが現実的ではないという指摘はあまり本質的な批判にはならず、むしろ、アニメではない表現方法の中に、アニメキャラクターを登場させるという新たな表現方法の一種を試したにすぎないといえる。

 

シン・ゴジラ自体、エヴァンゲリヲンをベースとした自己パロディという構造を持っているため、 庵野 秀明監督自体がむしろ、最初から、カヨコに人間味を持たせるということを放棄しているように思える。シン・ゴジラのキャッチコピーは「現実対虚構」であり、カヨコの存在自体が、物事を現実か虚構かとした捉えられない人へのアイロニーなのである。 庵野監督は、アニメ監督として一斉を風靡した後に、実写映画を撮り始めた。

 

そこにあったのは、アニメという表現への限界やアニメファンに対する自虐的な絶望。成功への屈折した思い。様々なあっただろうが、アニメという表現を使って「現実」を描こうとしてきた人間が、逆に現実をアニメ的に描くとなにができるのかという新たな表現への欲求であったのは想像にかたくない。

 

東浩紀もどこかで書いていたが、アニメ的表現によるリアリズムという捉え方があり、実写映画で演技の上手な俳優さんによるリアリティあふれる人間ドラマという現実の描きかたとは別に、現実をデフォルメしたアニメ的キャラクターが織りなす世界観の中であえて人間の本質をあぶり出すという表現手法も存在する。

 

現に、今の若者はアニメに共感し、現実世界の中にアニメ的コミュニケーションを取り入れる(演技を行う)ことにより、わずらわしい人間関係を避けたり、一種のフォーマットに則ったやりとりにより、お互いのトラウマに踏み込まないような配慮をする、というような側面も見られる。アニメが現実を模倣するのではなく、現実がアニメを模倣するのだ。

 

なので、カヨコにリアリティがないというのはそもそも批判にはならない。

 

次に、人間が描けていない。ドラマがないという批判も多い。
ドラマというのは人間の内面に対する葛藤と成長の物語であり、シン・ゴジラに出てくる登場人物は葛藤も成長もほとんどないため、薄っぺらいという批判である。

 

oookaworks.seesaa.net

 

この批判などは典型的だが、これも上記と同様に、庵野監督があえて選んだ表現方法というように思える。エヴァンゲリヲンでは、主人公がこれでもかというほど苦悩する。エヴァンゲリヲンは苦悩の物語であり、シン・ゴジラも苦悩の物語にすることもできたはずである。だが、あの膨大なテロップ、早回しのセリフ。登場人物の多さ。これらは、あえて、古典的な人間ドラマへの挑戦を行っており、人間が苦悩しなければドラマとはいえないのかというドラマ(物語)のフォーマットへの批判であるように思える。

 

そのほか、ただの怪獣映画だとか、ストーリーの矛盾をついたものだとか、園子温監督のお前らごときが311を語るなという批判だとか、ここがつまらないとか、枝葉末節に対する批判は多々、見つかったのだが、どうも本質的な批判とは思えず、ただ、面白くなかった点や気に入らなかった点をあげつらっているだけにしか見えない。

 

すべて、シン・ゴジラが何の物語であるかへの批判ではないのだ。

 

シン・ゴジラとは何の物語か。

 

シン・ゴジラは官僚が日本を救う物語である。

 

そして、主人公が官僚だからこそ、大ヒットしたともいえる。

 

官僚を主人公にした物語がヒットするということにあまりピンとこない人もいるかもしれないが、日本人は官僚を主人公とした物語が大好きである。

 

代表は水戸黄門暴れん坊将軍大岡越前、遠山の金さんである。

 

すべて、主人公は官僚であり、その本質的な構造は、悪い人がいても、最後は官僚の人がやってきてどうにかしてくれる、というストーリーである。

 

そして、シン・ゴジラも御多分にもれず、官僚が日本を救うという物語であり、日本人が大好きな構造である。

 

官僚たちが会議ばかりしている様が自虐的すぎるのではないかという論点もあったが、

 

www.mag2.com

 

あれは、自虐なのではなく、むしろ、自虐のようにみせて実は自慢である。

 

官僚・政治家たちは会議ばかりで遅々として物事が進まないが、日本人は首相がコロコロ変わっても、「和」の精神で合議制で物事を進めるから、色々と決断が遅いことも生じるかもしれないが、最後は日本人の一体感と努力と真面目にコツコツやる精神で、どうにかするんですよ、という主張であり、一部のリーダーが全体を統率して世界を救うアメリカ型マネジメントに対抗した日本型マネジメントの良さを謳ったプロパガンダである。

 

ここで、もっとも問題なのは、果たして官僚たちが常に正しい選択ができるかどうかであり、官僚たちが誤った選択をしそうになった時に、一般の国民は何ができるかという視点なのだが、シン・ゴジラには一切、そういった視点が欠けている。

 

この国はいつも誰かがなんとかしてくれる精神で成り立っている。

 

そして、官僚の誤りが世界大戦の敗北を招き、原発事故を招いた。

 

不法に海洋投棄された大量の放射性廃棄物ゴジラを生み出したのだが、不法に海洋投棄するのは民間企業ではなく、政府だ。

 

つまり、ゴジラそのものを生み出したのは官僚であるはずなのだが、それに対する視点は一切ない。

 

ゴジラがいつのまにか生まれるのが日本であり、それに触れることはタブーである。

 

国が政策を誤ったとしても、それは批判の対象にはならず、その結果、生み出された怪物を退治すると絶賛されるのである。

 

この巧妙に隠された構造に対する違和感は、第二次世界大戦は一部の軍人の暴走により日本が敗戦を迎えた。悪かったのは一部の軍人だったという気味の悪い総括にも通じるものがある。

 

もうひとつ批判したい点が日本の科学技術に対する盲目的な信仰である。単純化していえば、日本の科学技術は高度だから、何か危機が起きても政府と民間が力を合わせればなんとかなるという安直な発想である。

 

確かに日本が誇るべき最大の資産は技術力であることは間違いない。だが、人口ボーナスと敗戦国に対する金融業界の投資が招いた高度経済成長をあたかも自分たちの努力だけで成し遂げたような錯覚は、今後、世界の科学技術をリードしていくだろう中国やインドを目の前にして、老人のノスタルジックな自慢話にすぎない。もちろん努力がなかったわけではないだろうが、盲目的な信仰は破滅を招く。

 

特に、今後、IoT時代を迎えると、これまで、日本が誇ってきた職人芸の多くが、AIによってデータサイエンスの世界に吸収される。囲碁の名人がAIに負けたように、人間の直感と経験に基づいていた技術をAIが代替していく時代が始まるのだ。

 

そういった時代にもっとも重要なことは、ハードウェアとソフトウェアを融合させる能力であり、そういった観点から物事をみると、コツコツ誠実にやればたとえ時間がかかってもなんとかなるというものの見方は極めて危険である。

 

これからのビジネスを支配するのはスピードであり、コモディティ化する前にいち早くハードウェアとソフトウェアをうまく融合して次のビジネスを仕掛ける能力であり(Appleはこの能力で世界最高の企業へと成長した)、そういった視点では完全に日本は不利な状況にある。会議ばっかりしている間にすでにマーケットシェアが奪われており、市場参入を決めた時にはすでに勝負は決着しているのである。


シン・ゴジラでは、矢口 蘭堂をはじめとした優秀な官僚と泉 修一のような優秀な政治家、尾頭 ヒロミのような技術官僚、民間研究者、民間企業の知恵と努力によって、なんとか東京は壊滅を免れた。

 

だが、今の日本で本当に心配するべきは、無人在来線爆弾を発車しようとした時に、納品された部品が不正検査とデータ偽装ばかりで、社長が陳謝している間に東京が壊滅することである。

 

AI以前の問題である。