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保毛尾田保毛男は死んでしまった

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フジテレビが「みなさんのおかげでした」で毎度お馴染みの炎上騒ぎを起こしてネットコミュニティに叩かれている。LGBTを侮蔑するようなキャラクターを出して、今の時代にそれはない、トレンドを理解していない、おじさんたちの内輪受け的な懐古趣味が時代と乖離しすぎていて、まったく面白くないと批判されているのである。
 
 
フジテレビの番組作りもネットコミュニティの反応何度も繰り返されたパターンで、もはや既視感しか感じない。
 
一連の経緯も予定調和的とすら感じる経緯となった。
 
 
フジテレビが時代錯誤の価値観に基づいたお笑い番組を作る
弱者に対するいじめだと批判がある
時代がまったく読めていないと批判がある
組織的な抗議がある
会社が謝罪を行う
ネットコミュニティが色々な意見で盛り上がる
 
 
これが、今回の場合は、保毛尾田保毛男でありLGBTであったというだけである。
 
ネットコミュニティの反応は、はてなブックマークやブログを見ればおおよそ理解できる。
 
 
確かに、LGBTの価値観やポリティカルコレクトが尊重される時代にフジテレビの番組作りが時代錯誤であり、新たな時代の価値観と大幅にずれていることは明白である。
 
だが、いっぽうで何か大きな違和感も感じる。
 
これについて書いてみたい。
 
なぜ、違和感を感じるのか。端的にいえば、テレビや芸能に品行方正であることが過度に求められていると感じるからである。この違和感は、昨今の文春砲に代表される不倫スクープとも重なる。
 
元来、芸能とは歴史的に差別と密接な関わりを持って存在してきている。
 
 

 

歌舞伎にしろ、能にしろ、狂言にしろ、差別された人間たちが作ってきた。
 
日本のように民間主導のサブカルチャーカウンターカルチャーとなり、民衆の支持を受けながら拡大してき、政府や王朝の弾圧を受けながら形を変えて定着していき、やがて政府の保護を受けて伝統芸能として維持されていくか、ヨーロッパのように、貴族がパトロンとなって貴族たちを喜ばせるものとしてハイカルチャーの中で維持されてきたかというような文化ごとの違いは存在するか、文化人類学民俗学的なアプローチでは、多くの文化の中で芸能が一般社会とは異なる価値観で生きるアウトサイダー、つまり異常者たちが担ってきたことに異論はないだろう。
 
今の差別という言葉のニュアンスと多少イメージが異なるのは、単純に差別を行う者と差別をされる者という強者、弱者という一方的な関係でなく、「聖」と「賎」が絡み合いながら、存在していることである。自分たちと異なるという人間に感じる「畏れ」はある時には恐怖や畏怖を引き起こし、ある時には崇拝や神聖なるものとして崇める対象となる。
 
歴史を紐解くと障害者が神様として崇められる文化は世界中に多数見られる
 
これは日本だけでなく、どの民族・部族も似たような構造を持っている。
 
文化と両義性 (岩波現代文庫)

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芸能の担い手とは、やくざ者、はぐれ者、異常者、被差別者、巫女、賎民、漂流の民、障害者であり、芸能とは徹頭徹尾、水商売である。
 
ハリウッド映画にはマフィアが密接に関わり、日本でも、芸能界にはやくざが関わっている。興行とはやくざの商売のひとつであり、いまでもそうである。
 
問題は、テレビや映画産業が巨大化され、また、テレビから差別的な構造が巧妙に排除され隠蔽されるにつれて、もはや一般の人たちがそれを当たり前としない風潮すらでてきていることである。
 
つまり、もはやテレビや映画は被差別でなり、権力側だと多くのひとが認識しているということである。
 
 
の記事で述べたように20世紀後半に、テレビが与えた影響はとてつもなく大きい。
 
テレビからカウンターカルチャーが消えていき、吉本興行の芸人が仰々しい顔でニュースを読み上げながらコメントする。歴史的に、差別され、笑われ、滑稽芸として国家権力を風刺しながら民衆の支持を得ていた芸人という存在がそのままの形で存在することを許されず、いまや国家権力に寄り添いながら世の中の流れを解説する解説者となっている。
 
これは、カウンターカルチャーの死である。
 
カウンターカルチャーとは世の中の巨大権力の強烈な否定であり、世間を支配する目に見えない支配構造に対する反逆である。テレビが叩かれ、Youtuberたちがもてはやされるのは、反逆の場がもはやテレビには残っておらず、Youtubeの中にしか存在しなくなりつつあるからである。犯罪スレスレのなんの深みも面白みもないYoutuberの配信でも、ネットの中で支持を受けられるのは、彼らが自分にはできない反逆者として国家権力に反発を行っているからである。カウンターカルチャーを担えなくなったテレビはこのままゆっくりと衰退していくだろう。
 
保毛尾田保毛男事件がネットでこれだけ叩かれるのは、本来、差別されるものであるはずの芸能が、他者を差別する側の権力者側に立っていると多くのひとがみなしているからである。第4の権力であるマスコミが公共の電波という大義の中で権力者として振る舞う。これでは民衆の支持を受けられないことは自明である。
 
畏怖と崇拝の絡み合った感情で畏れを抱かれながら異常者が異常なものを見てもらい金をもらうというのが本来の芸能である。そこには、正常と異常という権力構造と差別が必ず存在し、芸能人とは差別される人種なのである。
 
だが、一般の人たちはそうは思わず、世間の普通の人より良い給料と名声をもらって煌びやか生活を送るひとが、国家権力の庇護のもとで、性的少数者を馬鹿にしている、とみなす。だから炎上するのである。
 
芸能界の中にいると自分たちが決して特権階級などでなく、誰もが、自分たちは被差別者であるという意識は常にどこかにあり、いくら金銭的に成功し成り上がったとしても、明日には一瞬で仕事がなくなる水商売であるという後ろめたさと不安感の中で仕事をしていることだろう。それを一番わかっているのは芸能人たちである。映画監督として世界から名声を得て社長にしたい芸能人や首相にしたい芸能人に何度も選ばれるビートたけしが一番そのことをよく理解しているかもしれない。
 
異常者であるはずの自分たちがいつのまにか品行方正を求められ、社会権力の側に立つことすら求められている。この流れはもはや止められず、国家のプロパガンダ装置としてのコントロールがテレビには求められる。それを忠実に実行し、サラリーマンとして、国民を正しい方向に導くことを求められているのが、ジャニーズのアイドルや吉本興行所属の芸人たちである。
 
異常者が異常者として存在することを許されず、差別はいけませんという建前の中、綺麗好きの国民性とあいまって、社会システムの中で巧妙に居場所を失われていく。ほがらかに馬鹿にされながら、国家としては高度経済成長の中で哀愁とともに国家としては一体感を感じながら成長を感じることができた昭和という時代が遠くなり、もはやカウンターカルチャー自体がどこに歯向かえばよいのかすらわからなくなっている。
 
 
でも取り上げたように、過剰な同調圧力の中で差別か差別でないかを適切に見極めながら行動しないとネットで血祭りにあげられる。国家権力とは別の見えない権力がさらなる同調圧力を増長している。
 
窮屈で困った時代になったなーというのが芸能人たちの本心のはずである。
 
石橋貴明は当時、まだ一般社会から受け入れてもらえずバカにされ差別される対象であったお笑い芸人と、同種の差別を受けていた同性愛者という存在を戯画化し、自らがそれを演じることで日本人に自分たちが正常側に立っていると安心させ笑いに昇華した。
そこにあったのは弱者への愛でありペーソスであり、決して一方的な選別意識ではない。同じコンテンツが30年後に一方的な暴力だとみなされるのは、石橋貴明がもはや権力者だと認識されているからである。
 
違和感を感じるのは、現代社会の中でLGBT差別自体が批判されながらも、どこかそのポリティカルコレクトの批判の中に、異常者そのものを巧妙に隠蔽・排除し、異常であること自体が許されないという別種の窮屈さや許容性の少なさを感じるからである。昭和の時代は差別/被差別という構造が存在しながらも、もう少し多様な異常者が存在しやすいほがらかさも残っていた。
 
過剰なポリティカルコレクトが問題にされるのは日本だけでなくアメリカでも同様である。リベラルと保守の価値観の違いであり、人間がはたして綺麗事なしに他者を差別せずに生きていくことができるのかという現代社会特有の新たな問題提示である。
 
笑いとは、異常なものを提示された際に、正常な人間があいつは異常だと指摘するから成立するものである。ボケとツッコミとは、自分が正常側に立っていることを再確認させて安心させるから成立することである。つまり日本社会という共通の価値観がないと成立しない。
 
ダイバーシティーが求められる世の中では、お笑いにも、別の形の批評性と諷刺性が求められていくだろう。日本はもうガラパゴスであることは許されないのである。
 
これは時代遅れのフジテレビのコンテンツの擁護や昭和は良かったという懐古趣味ではなく、単に日本が高度経済成長期を終え、近代社会として成熟したというだけのことである。フジテレビは新たな時代にあったお笑いを創造する努力をしなければ、やがて、保毛尾田保毛男同様居場所を失うであろう。
 
バブル全盛期とは日本人が同一の幻想に向かって一体感を感じられた最後の時代であり、保毛尾田保毛男が人気だったのは、まだ、その共同幻想が力を持っていたからである。
 
それから30年、保毛尾田保毛男はグローバル社会によって殺されてしまい、共同幻想を維持したいネット右翼たちとポリティカルコレクトをうたうリベラルたちが見えない敵と戦いながら、仮想敵を相手に、別種の暴力をふるうことに熱中している。
 
多様な価値観が大事だと声高々にうたわれる一方で社会全体からはますます巧妙に多様性が排除されていくのである。