世の中を斜めから見るウェブマガジン - 世界は今日も回っている -

カルチャー・トレンド・ビジネス・IT・マーケティング・社会問題etc。世の中のいろいろなことについて好き勝手に語ります。

2030年/長野/デジタルスナック

f:id:sekaim:20171210000713j:plain

 
こんばんはー。長野の場末のスナックに外国人の4人組がやってきた。
 
時は2030年。
 
そのスナックは日本のレトロなガジェットが楽しめるデジタルスナックだった。
 
2017年からIT起業家達からはじまったスナックブームはもはや世界的なブームとなっていた。
 
カラオケ、スナック、寿司。
 
今や、日本はスナックを海外に輸出するようになっていた。
 
ことの発端はSNS疲れだった。
 
FacebookInstagram、Line、デジタルのコミュニティが世界中に広まったものの、世界中の誰もが、SNSでマウンティングしあう世の中に疲れ切っていた。
 
そんな中、デジタルスナックというコンセプトが広まっていった。
 
スナックはサロンであり、新たなコミュニティの場だった。
 
2017年くらいにはじまったTinderのUIが世界を席巻していた。
 
2030年の若者たちは、TinderUIで右と左でswipeするだけで、自分が今夜飲みたい相手や、たまたま近くに旅行に来ていた外国人と一緒に飲めると一緒に来ていた。
 
今日、会いたい起業家のコミュニティ、日本好き外国人のコミュティ、どんなコミュニティでも昼間にswipeするだけで、自分が最も飲みたい相手とのセッティングを一瞬でしてくれた。
 
すごい。
そのベトナム人の女の子が声を上げた。
 
なにが。
ベネズエラ人の20歳の女の子が応えた。彼女は、ベネズエラが崩壊したときにBitcoinの口座開設を代行していた小学生だった。彼女はいち早く、ベネズエラ人たちのために口座を開設し、国内でも名だたる富裕層となった。
 
Garapagos Phoneよ。
 
Faxもある。これがあの有名なFaxだよ。
 
インド人の男性がこたえた。
 
彼は根っからの日本フリークだ。
 
カラオケもあるよ。レーザーディスクkaraokeだよー。
 
レーザーディスクをセットして、Arグラスで全員が歌い出す。
 
2023年にArグラスの自動翻訳機能ができてから、世界中のみんながどんな国のどんな音楽でも歌えるようになった。
 
インドの彼が好きなのはJ-POPだ。
 
ゆず、アジカンくるり、最高だよー
 
と言いながら、彼が歌い出す。
 
カラオケはどんな歌詞でもすべて自国語に翻訳し、歌うことができる。
 
ベトナムの女の子が指をさす。
 
ここには、なんでもあるのね。
 
ポケベル、CASIOのレジ、KENWOODのカーナビ、RICOHのコピー機。もはやなくなってしまったガジェットだ。
 
日本人の女の子が接客する。
 
ベトナムの女の子が話す。
 
日本はいいわね。コスパが最高よ。
 
2025年に日本は国内工場が復活した。東南アジアの給与が逆転し、日本には工場がどんどんできていた。ベトナム、インド、マレーシア。日本人の安い給料はもはや失われた30年と呼ばれていた。
 
2018年には、スナックで若いベトナム人やフィリピン人の女の子たちが一生懸命はたらいていた。彼女たちはもはやいない。
 
日本人の女の子ばかりだ。
 
そして、東南アジアの女の子たちが遊びにくる。
 
日本のスナックに来たかったのよ。
 
そうだよな、自分たちの国のデジタルスナックしか経験したことしかなかったもんな、俺たち。
 
男の子二人がArグラスを外す。
 
彼らたちは、一切、言葉が通じないという場をあえて楽しむ。
 
日本人の女の子とボディランゲージできゃっきゃと楽しんでいる。
 
言葉が通じないって面白いよな。
 
日本でしかこういうの味わえないよな。
 
今や、世界中では防犯カメラとデジタルID制度で、もはや監視されず楽しめる場はなくなっていた。
 
ここでは、王様の悪口や政府の批判も自由だった。
 
日本はマイナンバー制度に失敗し、もはや、世界中で監視されずに飲める国は日本を始め、少数となっていた。
 
4人は柿ピーやshochu、sakeを散々飲み、日本の夜を楽しんだ。
 
そろそろ、出ようか。
 
インド人の彼が妙齢のママに声をかける。
 
このお店はcryptoドルは使えるのか
 
使えません。
 
なんだと、cryptoルーブルは使えるのか
 
使えません。
 
あなた、知らないの。
 
ベネズエラ人の女の子が話す
 
このお店は現金しか使えないのよ。
 
そんな情報は聞いてないぞ。
 
Wikipediaにも載ってなかったぞ。
 
馬鹿ね。WEOよ。
 
Wikipedia Optimazitionが世界中で流行っていた。
 
Wikipediaの情報を操作してあったことをなかったことにすることだ。世界中の若い労働者たちがいまやWikiPediaの情報を操作することで給料をもらい、毎日書き換えることで争っている。
 
まさか、このお店はキャッシュしか使えないというのか。
 
現金なんて見たことないぞ、どうすれば手に入れることができるのだ。
 
その時、隅で飲んでいたしょぼけた日本人の老人が声をかける。
 
だんな、現金を売りますよ。
 
日本円、20,000円、どうですか。
 
いくらだ。
 
200,000円でどうですか。CryptoドルでもCryptルーブルでも払えますよ。
 
そんな、ぼったくりじゃないか。
 
なんで現金を買うのに10倍もはらわなければいけないのだ。
 
だんな、リサーチが足りませんな。
 
インド人はなくなく払う。
 
4人が帰ったあと、老人はプロジェクターのスイッチを切る。
 
ここは、ただの会議室だ。
 
プロジェクションマッピングでスナックを演出し、外国人からぼったくるお店だ。
 
今日も儲かったわね。
 
ママがつぶやく。
 
老人が舌なめずりする。
 
ママが昭和歌謡レーザーディスクをかける。
 
 
今日もいい酒がのめたわ。
 
 
 
 

かわいいだけじゃつまらない CHAIと”NEOかわいい”の時代

f:id:sekaim:20171120222746j:plain

 
10月25日にファーストアルバム『PINK』を発売したCHAIの勢いが止まらない。代表曲『N.E.O』のYoutube再生回数は30万を超え、コアな音楽ファンだけでなくファンを拡大している。
 
 
CHAIの魅力については、すでに多くの音楽メディアが取り上げており、そちらに譲る。
 
 
 
彼女たちの魅力はその同時代性にある。
 
だれもが毎日、自撮りの角度ばかり気にして、誰かが決めた「かわいい」という基準から少しでもはみ出した行動をしていないかをSNSでチェックし合う窮屈な世の中にNOをつきつける。
 
おじさんたちがグルになって、じぶんたちのことをクールだと偽って、汚職収賄にまみれたお金でKAWAII文化を輸出しようとする社会にNOをつきつける。
 
ファッション雑誌が定義する「モテ」と「個性」の基準にそれなりに合わせた結果、誰もが同じような格好をする同質的な社会にNOをつきつける。
 
彼女たちが定義した「かわいい」の新たな概念は、飾らないそのままの自分を大事にする、というまっとうな価値観であり、フェイクニュースとセレブスキャンダルとインスタ映えに翻弄される現代社会への痛烈な批判として機能する。
 
CHAIの音楽は、毎日、SNSに偽りの「わたし」を投稿することに疲れたひとたちに笑顔を呼び戻すだろう。それは、作られたアイドルたちの時代を終わらせ、くだらないSNSの時代も終わらせるかもしれない。
 
私の思いは厚めの
ファンデーションを落として
so fly away
Your charming is freedom
飾らない素顔の
そういう私を認めてよ
so fly away
Your charming is freedom

 

ニュー・エキサイト・オンナバンドは自由を志向する。
 
CHAIは、ファッションブランドとコスメブランドとマスメディアが作り上げたありきたりな美のイメージからの解放を呼びかける。
 
sayonara complex
 
 
いま、必要なのは、誰かが作ったステレオタイプな「かわいい」をなぞることではない。
 
自分の欠点を認め、最高の笑顔でそれを世界に発信することである。
 
かわいいだけじゃつまらない時代はもうはじまっているのだ。

 

銀行消滅 - 銀行マンが仮想通貨で農作物を売る日

f:id:sekaim:20171119151537j:plain

 
大手3大メガバンクが大規模なリストラを発表し、銀行消滅というキーワードがニュースメディアを賑わせた。もちろん、銀行消滅というのはセンセーショナルな見出しで注目を集めるためのキャッチーなキーワードという側面が強く、実際には今すぐ銀行がなくなるわけではない。
 
 
 
 
 
しかしながら、大手メガバンクの経営計画にリストラクチャリングが盛り込まれたというのは現場レベルでのFintechの影響がすでに目の前に迫っており、あるいは始まっており、今後の銀行経営上、そこを避けては通れないという判断をしたということのあらわれである。
 
 
ハーバードビジネスレビューはもっと辛辣に、今後、イノベーションを起こすことに失敗した銀行の90%は10年以内に消滅すると予想している。
 
いずれにせよ、今後、10年は金融の世界に大きな変化が訪れる準備が整ったといえるだろう。
 
銀行が生き残るためにはビジネスモデルの変化が求められる。
 
銀行が行っている主な業務には、「預金」、「融資」、「為替」の3つがある。
 
そして、その3つともに、これまでの業務と同等のビジネスモデルでは生き残れない。
 
預金…マイナス金利による金利収入の減少
融資…AIによる自動融資。クラウドファンディングICOなどの新たな調達手段の増加
為替…ブロックチェーンの利用による為替手数料収入の競争激化
 
これから、金融業界に起きることは、紙幣や貨幣の減少であり、仮想通貨を含めた、デジタルマネーの増加や金融テクノロジーの発達に伴うサービスの多様化である。
 
従来型の銀行業は、決して現代的なITテクノロジーに強いわけでなく、むしろ重厚長大で融通のきかないレガシーシステムを他社に依頼し、つぎはぎをしながら維持しているという構造の方がイメージに近い。
 
みずほ銀行の基幹システムの統合がサクラダ・ファミリアだと揶揄されていたが、まだ完成した?だけましである。
 
複雑に絡み合ったソースコードのことをスパゲティコードと呼ぶが、一生懸命、スパゲティをほぐしている間にすでに勝負が決まっているのがITの世界であり、今後はスピード感が市場シェアを取る上で最大の武器となる。
 
そういった意味で、既存の銀行業は極めて不利を強いられている。法制度によって守られていること、信頼できるブランドイメージを持っていること、顧客との長年に渡る接点と情報を持っていること、という点以外は、新興ITベンチャーAmazonGoogleというようなITメガベンチャーの方が明らかに有利な戦いである。
 
これから始まるITを中心とした金融革命の中で、銀行内部の業務自体も見直しを図られるだろう。
 
現代ビジネスの記事では、下記の業務がAIによって置き換えられるだろうと予測されているが、
 
(1) 顧客に接触しない事務処理
(2) コールセンター等の定型的な顧客対応処理
(3) 支店窓口等の定型的顧客対応
(4) 個人向け等の小口ローン
(5) 法人向け融資
 
最も高度で人的スキルが必要とされている(5)の法人向け融資ですら、現在は、ほぼ人的業務ともいえない状況となっている。決算書によるリスク評価に基づく融資がほとんどであり、よく銀行が、「雨の日に傘を取り上げ、晴れの日に傘を差し出す」と言われる所以である。
 
だが、これは銀行の構造上、仕方がない側面もある。銀行はベンチャーキャピタルとは異なり、できるかぎり安全に資産を運用することが仕事だからである。
 
だが、ビジネスとはそもそもリスクを取らずに行うことはできない。銀行がリスクマネーの提供ができない以上、資金調達は自ずと他の調達手段に移行していくだろう。
 
これから起きることは、ほぼあらゆる意味で既存の銀行業を脅かすだろう。
 
では、既存の銀行業に生き残る術はあるのだろうか。もしくは、今、現在、銀行員をしている行員はどのようなキャリアステップを描くことができるだろうか。
 
ひとつは、金融のプロとしての付加価値の提供である。
 
Fintechによる金融の多様化は金融の敷居を下げる代わりに、情報の爆発を生み出す。消費者や企業にとっては資金調達や金融商品の運用自体の方法が増えすぎて判断できない状態というのが予想される。
 
銀行は金融のプロとして、そういった個人や法人に対して、アドバイザリー業務の提供を行うことが予想される。
 
例えば、金融のプロとして与信を与えていくデータビジネスの可能性がある。これは帝国データバンクなどの信用調査会社が行っている仕事である。銀行ならではの金融データをマーケティングデータと組み合わせながら、信頼性の高い情報を有償情報として提供していく。
 
あるいは、銀行マンが企業に代わって、資金調達の支援を行うという仕事も考えられる。企業の外部ファイナンス担当者として、ベンチャーキャピタルから出資を引っ張ってきたりクラウドファンディングを実施するのだ。
 
これは、管理人の勝手な推測だが、これからの社会では、「代行業」自体の価値が急激に下がっていく時代が来るのではないかと予想している。
 
たとえば、銀行業は、資金の取り扱いの代行であり、システム開発会社は企業のシステム開発の代行業である。広告代理店は、企業の広報の代行である。
 
これまでそういった代行業は、企業のアウトソース先として大きな機能を担ってきた。それは、自社の中だけで専門性を培うには情報が少なかったからこそ成り立ったビジネスである。
 
だが、この情報社会の中ではむしろ、他社に任せてしまうとスピード感が出ずにノウハウも構築されない。
 
日本の大手企業は資金調達能力を大手銀行に握られ、マーケティング能力を大手広告代理店に握られ、基幹システムの構築を大手SIerに握られている。そして、それらの機能が分断されていることで、スピード感を犠牲にしている例が多い。
 
これからのデジタル社会では、金融もITも広告もマーケティングもデータビジネスとして一体化していく。
 
そういった社会では、自社内で小回りの効くジャンル横断チームを柔軟に編成し、新たなイノベーションを自発的に仕掛けていくような企業の方が強い。
 
銀行がイノベーションの創造を積極的に担う役割を担えないのであればお役御免となるであろう。
 
そして、そういった旧態然とした銀行ではリストラクチャリングが進み、人員削減が進むだろう。
 
それでは、人員削減された銀行マンはどのようにすれば良いのだろう。
 
簡単である。
 
農業・介護・建設・飲食・物流・伝統工芸etcetc
 
これからの日本では人手不足が進み、産業の担い手がいない業界や企業が膨大に出てくる。
 
そういった業界は金融やITのプロが少ない。
 
リストラされたあなたは、農林中金やJAから融資してもらうことしか知らない老人たちの代わりに農業専門の仮想通貨の発行を支援してあげればよいのだ。
 
日本は昔から現金信仰が強く、アメリカや中国のようなキャッシュレス社会への移行が進むのかどうかまだ半信半疑の人も多いだろう。
 
アメリカでクレジットカードが急速に進んだのは広大な国土で現金を流通させること自体に盗難リスクが多かったためだと言われている。中国でモバイル決済が急速に普及したのは偽札や詐欺が多かったからだと言われている。WeChatPayとAliPayの急激な普及により、一番最初に職を失ったのが、泥棒であり、二番目に職を失ったのが偽札工場とのことだ。
 
日本人に取って、お金はお米のメタファーでイメージされていることが強く、今の財務省も昔は大蔵省と呼ばれていたように、蔵に米を預けるイメージというのが日本人にとっての預金である。
 
米というのは蔵に預けていても腐ったりしない。天変地異が多い日本という土地では、お金は銀行に預けているのが一番安心感があるのだ。
 
しかしながら、日本でキャッシュレス社会への移行が進むとすれば、そのきっかけになるのはかつてないほどの人手不足であろう。
 
企業の生産性を高めない限り、優秀な働き手を確保することはできない。
日本企業でも自然と合理化が進んでいき、合理化に失敗した企業は淘汰される。
 
お米を蔵で寝かせておくのではなく、新たなお米づくりの仕組みを作ってあげることこそがこれからの銀行マンの一番の仕事になるであろう。
 

シン・ゴジラの憂鬱。東京がゴジラによって壊滅する日

シン・ゴジラの地上波放送があり、話題になっているので、今日はシン・ゴジラを批判してみようと思う。

 

f:id:sekaim:20171114023226j:plain

 

同様の論旨で批判を行っている記事が必ずあると思って、シン・ゴジラ批判の記事を検索してみたのだが、なかなか見つけられなかった。

 

おそらく、似たような方針による批判記事もあるとは思うが、探しきれなかったので思うところを書いてみよう。

 

シン・ゴジラについては、まず骨太の批判を探すのも難しい。

 

まず、多いのはカヨコに対する批判だ。

・カヨコにリアリティがない
石原さとみの英語が微妙
石原さとみの演技が浮いている

 

確かに、カヨコのキャラクター設定については、キャスティングも含めて多々問題を感じる。

 

だが、所詮、瑣末な問題である。

 

カヨコ=式波(惣流)・アスカ・ラングレーと考えれば、カヨコが現実的ではないという指摘はあまり本質的な批判にはならず、むしろ、アニメではない表現方法の中に、アニメキャラクターを登場させるという新たな表現方法の一種を試したにすぎないといえる。

 

シン・ゴジラ自体、エヴァンゲリヲンをベースとした自己パロディという構造を持っているため、 庵野 秀明監督自体がむしろ、最初から、カヨコに人間味を持たせるということを放棄しているように思える。シン・ゴジラのキャッチコピーは「現実対虚構」であり、カヨコの存在自体が、物事を現実か虚構かとした捉えられない人へのアイロニーなのである。 庵野監督は、アニメ監督として一斉を風靡した後に、実写映画を撮り始めた。

 

そこにあったのは、アニメという表現への限界やアニメファンに対する自虐的な絶望。成功への屈折した思い。様々なあっただろうが、アニメという表現を使って「現実」を描こうとしてきた人間が、逆に現実をアニメ的に描くとなにができるのかという新たな表現への欲求であったのは想像にかたくない。

 

東浩紀もどこかで書いていたが、アニメ的表現によるリアリズムという捉え方があり、実写映画で演技の上手な俳優さんによるリアリティあふれる人間ドラマという現実の描きかたとは別に、現実をデフォルメしたアニメ的キャラクターが織りなす世界観の中であえて人間の本質をあぶり出すという表現手法も存在する。

 

現に、今の若者はアニメに共感し、現実世界の中にアニメ的コミュニケーションを取り入れる(演技を行う)ことにより、わずらわしい人間関係を避けたり、一種のフォーマットに則ったやりとりにより、お互いのトラウマに踏み込まないような配慮をする、というような側面も見られる。アニメが現実を模倣するのではなく、現実がアニメを模倣するのだ。

 

なので、カヨコにリアリティがないというのはそもそも批判にはならない。

 

次に、人間が描けていない。ドラマがないという批判も多い。
ドラマというのは人間の内面に対する葛藤と成長の物語であり、シン・ゴジラに出てくる登場人物は葛藤も成長もほとんどないため、薄っぺらいという批判である。

 

oookaworks.seesaa.net

 

この批判などは典型的だが、これも上記と同様に、庵野監督があえて選んだ表現方法というように思える。エヴァンゲリヲンでは、主人公がこれでもかというほど苦悩する。エヴァンゲリヲンは苦悩の物語であり、シン・ゴジラも苦悩の物語にすることもできたはずである。だが、あの膨大なテロップ、早回しのセリフ。登場人物の多さ。これらは、あえて、古典的な人間ドラマへの挑戦を行っており、人間が苦悩しなければドラマとはいえないのかというドラマ(物語)のフォーマットへの批判であるように思える。

 

そのほか、ただの怪獣映画だとか、ストーリーの矛盾をついたものだとか、園子温監督のお前らごときが311を語るなという批判だとか、ここがつまらないとか、枝葉末節に対する批判は多々、見つかったのだが、どうも本質的な批判とは思えず、ただ、面白くなかった点や気に入らなかった点をあげつらっているだけにしか見えない。

 

すべて、シン・ゴジラが何の物語であるかへの批判ではないのだ。

 

シン・ゴジラとは何の物語か。

 

シン・ゴジラは官僚が日本を救う物語である。

 

そして、主人公が官僚だからこそ、大ヒットしたともいえる。

 

官僚を主人公にした物語がヒットするということにあまりピンとこない人もいるかもしれないが、日本人は官僚を主人公とした物語が大好きである。

 

代表は水戸黄門暴れん坊将軍大岡越前、遠山の金さんである。

 

すべて、主人公は官僚であり、その本質的な構造は、悪い人がいても、最後は官僚の人がやってきてどうにかしてくれる、というストーリーである。

 

そして、シン・ゴジラも御多分にもれず、官僚が日本を救うという物語であり、日本人が大好きな構造である。

 

官僚たちが会議ばかりしている様が自虐的すぎるのではないかという論点もあったが、

 

www.mag2.com

 

あれは、自虐なのではなく、むしろ、自虐のようにみせて実は自慢である。

 

官僚・政治家たちは会議ばかりで遅々として物事が進まないが、日本人は首相がコロコロ変わっても、「和」の精神で合議制で物事を進めるから、色々と決断が遅いことも生じるかもしれないが、最後は日本人の一体感と努力と真面目にコツコツやる精神で、どうにかするんですよ、という主張であり、一部のリーダーが全体を統率して世界を救うアメリカ型マネジメントに対抗した日本型マネジメントの良さを謳ったプロパガンダである。

 

ここで、もっとも問題なのは、果たして官僚たちが常に正しい選択ができるかどうかであり、官僚たちが誤った選択をしそうになった時に、一般の国民は何ができるかという視点なのだが、シン・ゴジラには一切、そういった視点が欠けている。

 

この国はいつも誰かがなんとかしてくれる精神で成り立っている。

 

そして、官僚の誤りが世界大戦の敗北を招き、原発事故を招いた。

 

不法に海洋投棄された大量の放射性廃棄物ゴジラを生み出したのだが、不法に海洋投棄するのは民間企業ではなく、政府だ。

 

つまり、ゴジラそのものを生み出したのは官僚であるはずなのだが、それに対する視点は一切ない。

 

ゴジラがいつのまにか生まれるのが日本であり、それに触れることはタブーである。

 

国が政策を誤ったとしても、それは批判の対象にはならず、その結果、生み出された怪物を退治すると絶賛されるのである。

 

この巧妙に隠された構造に対する違和感は、第二次世界大戦は一部の軍人の暴走により日本が敗戦を迎えた。悪かったのは一部の軍人だったという気味の悪い総括にも通じるものがある。

 

もうひとつ批判したい点が日本の科学技術に対する盲目的な信仰である。単純化していえば、日本の科学技術は高度だから、何か危機が起きても政府と民間が力を合わせればなんとかなるという安直な発想である。

 

確かに日本が誇るべき最大の資産は技術力であることは間違いない。だが、人口ボーナスと敗戦国に対する金融業界の投資が招いた高度経済成長をあたかも自分たちの努力だけで成し遂げたような錯覚は、今後、世界の科学技術をリードしていくだろう中国やインドを目の前にして、老人のノスタルジックな自慢話にすぎない。もちろん努力がなかったわけではないだろうが、盲目的な信仰は破滅を招く。

 

特に、今後、IoT時代を迎えると、これまで、日本が誇ってきた職人芸の多くが、AIによってデータサイエンスの世界に吸収される。囲碁の名人がAIに負けたように、人間の直感と経験に基づいていた技術をAIが代替していく時代が始まるのだ。

 

そういった時代にもっとも重要なことは、ハードウェアとソフトウェアを融合させる能力であり、そういった観点から物事をみると、コツコツ誠実にやればたとえ時間がかかってもなんとかなるというものの見方は極めて危険である。

 

これからのビジネスを支配するのはスピードであり、コモディティ化する前にいち早くハードウェアとソフトウェアをうまく融合して次のビジネスを仕掛ける能力であり(Appleはこの能力で世界最高の企業へと成長した)、そういった視点では完全に日本は不利な状況にある。会議ばっかりしている間にすでにマーケットシェアが奪われており、市場参入を決めた時にはすでに勝負は決着しているのである。


シン・ゴジラでは、矢口 蘭堂をはじめとした優秀な官僚と泉 修一のような優秀な政治家、尾頭 ヒロミのような技術官僚、民間研究者、民間企業の知恵と努力によって、なんとか東京は壊滅を免れた。

 

だが、今の日本で本当に心配するべきは、無人在来線爆弾を発車しようとした時に、納品された部品が不正検査とデータ偽装ばかりで、社長が陳謝している間に東京が壊滅することである。

 

AI以前の問題である。

東芝はテレビもパソコンもメモリーも捨てて全力でロボット事業に注力すべきだ

f:id:sekaim:20171110003352j:plain

 
東芝が過去最大の営業利益とテレビ・パソコン事業からの撤退を発表した。
 
 
 
 
 
東芝といえば、白物家電原子力、音楽、携帯電話、軍事機器etcetcというイメージがあるが、史上最大の危機を迎えているからこそ、あえて問いたい。
 
なぜ、東芝はロボット事業に注力しないのだろうか。
 
ASIMOAIBO、PEPPER、ロボホン
 
様々なロボットが出てきている。
 
なぜか、東芝の話はあまりきかない。
 
産業用ロボットやスマートクリーナーロボットは発売されている。
 
研究所では、人型ロボットの研究もされているだろう。
 
だが、なぜか原点であるロボット事業に注力しているという話がない。
 
そう、東芝の原点といえば「からくり人形」である。
 
 
ここまで精緻なロボットを開発したところが東芝の原点である。
 
当時、世界的に見て、ここまでの構造を実現した技術者はほとんどいなかった。
 
江戸時代、ヨーロッパではオートマタと呼ばれたロボットの開発も進められていた。


オートマタ作家・堀江出海さん 水戸で企画展

 
だが、江戸時代この細部まで洗練された技術、アートとテクノロジーを融合したプロダクトを作ったのは、田中久重だけだった。
 
そして結局、堀江出海さんのような日本人がヨーロッパのオートマタをハイクオリティで再現している。
 
ロボット産業は日本人が世界一上手なはずだ。
 
その後、東芝はロックフェラーの傘下に入り、アメリカの論理の元に事業を拡大し、そして、アメリカの論理の元にWHを買収させられ、大赤字を背負わされた。
 
日本企業がアメリカ企業を買収する時点でそこには何かしらのからくりがあり、最終的には日本が貧乏くじを引かされるのだ。
 
日本郵政の豪トール買収も同じであろう。
 
田中久重が生きていれば、このようなからくりは一瞬で見抜いていただろう。
 
東芝はもう一度、ロボットを作り、アートとテクノロジーを融合したからくり人形製造メーカーとして世界の最先端をいくべきだ。
 

f:id:sekaim:20171110003922j:plain

f:id:sekaim:20171110003930j:plain

 
 
 

新しい地図と新しい家具と新しい政治

f:id:sekaim:20171107024533j:plain

 
新たな時代の衣装をまとった女が時代遅れの老人に戦いを挑む物語。
 
3つの物語が世間を賑わせている。
 
3人の果敢な女性とは、そう、飯島三智、小池百合子、大塚久美子の3人である。
 
彼女たちは時代遅れの老人に戦いを挑むため、「新しい」という旗を掲げ、革命を志した。
 
そして、大塚久美子女史の革命は早々に失敗し、小池百合子女史も致命的な敗北を期し、飯島三智女史の革命は一見、よいスタートを切ったかのように見える。
 
前代未聞の企画にもかかわらず、72時間、一度もサーバーを落とすことがなかったというこの地味な成果はインターネットに詳しいユーザーたちの賞賛を得ている。世間は伝説の72時間の熱狂からしばらく覚めないだろう。
 
 
 
だが、注目すべきは女たちの戦いは本当に成功するかどうかということである。
そして、どのように戦えば成功するのか、その戦略論と戦術論である。
 
大塚久美子氏の革命から見てみよう。
 
大塚久美子氏の失敗については、多くの場所で多くの識者が述べているのでここでは触れない。
 
 
大塚久美子氏は、
・婚礼家具という「幸せ」の象徴を「戦い」のイメージで塗りつぶしてしまった
・みずからの行動自体が、IKEAニトリのようなビジネスモデルへ転換するというメッセージとして受け取られることを想定してい なかった
コンサルティングファームの書く絵は所詮は絵に描いた餅であり、人間を動かしているのは、義理と人情であるということへの配慮が足りなかった
 
という3つのわかりやすい失敗を犯すことで、窮地に陥った。
 
TKP社との業務提携が話題になっているが、おそらく先がない。このまま、倒産への道をまっしぐらに突き進むか虎視眈々と状況を見る狡猾なファンドたちが乗り込んできて買収劇に巻き込まれるだろう。
 
 
 
小池百合子氏の失敗は、「排除」という言葉に象徴されている。
 
 
赤坂真里氏が指摘しているように、「排除」とは強者の言葉であり、戦いを挑む勇者がまとうイメージではない。
 
その言葉を小池百合子氏が使ったかどうかは別にしろ、「排除」という言葉が独り歩きした時点で小池百合子氏の負けである。
 
小池百合子氏は、大塚久美子氏のような致命的な敗北は喫してない。東京都知事としての実績がほぼ出ていない現状から一種の敗北のようなものだとも思うのだが、政治は水もの。新たな打ち手によって今からまたオセロをひっくり返すこともできるだろう。
 
 
 
 
飯島三智氏の革命はどうだろう。
 
 
飯島三智氏の革命は藤田晋氏という類い稀な天才勝負師との利害関係の一致という幸運に支えられ、一見、大成功したように見える。
 
むしろ、革命に意欲的だったのは藤田晋氏の方だったかもしれない。飯島三智氏があくまで裏方に徹し、表に出なかったことも成功のひとつの要因だろう。革命を志す果敢な勇者を影で支えて理解を示す可憐な女性というイメージは世の中の支持を得やすい。
 
インターネットという新しい武器を得た国民的アイドルとインターネットを知り尽くした実業家と組織の中でやりたいことを自由にできないテレビ局の若手スタッフがタッグを組めばどこまで面白いことができるのか、今後、注目である。
 
 
と3つの物語が世間を騒がせているが、もう一度、論点に帰る。
 
革命は本当に成功するのだろうか。
 
 
この記事でも言及したが、ロシアの偉大な量子物理学者で作家であるヴァジム-ゼランド氏が指摘しているように、巨大組織との戦いは不毛な結果に終わることが多い。巨大組織との戦いに消耗している人はぜひ、この不思議な本を読んでみてほしい。
 
「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択

「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択

 

 

誰もあえてこのタイミングで指摘はしないだろうからあえて言うが、(昔の)大塚家具にせよ、ジャニーズ事務所にせよ、ビジネスモデルは極めて優れている。時代にそぐわなくなってきたというだけで、保守的に守りの経営に徹すればまだまだ生き永らえるビジネスモデルである。「新しい」というだけのイメージ戦略だけで勝てるようなやわなものでは決してない。守りの経営というのは老人の戦略であり、世間の評判は得られないだろうが、世間から何と言われようが狡猾に生き延びるのもまた一種の老人の知恵である。
 
大塚久美子氏が新旧の価値観それぞれの立場から批判されるのは、新たな革命が失敗しただけではなく、旧来型の保守派が老人の知恵で生き延びる芽も刈り取ってしまったからである。父親の大塚勝久氏は結局、匠大塚という形で老人の知恵を生かす場を別に作った。おそらく大成功はしないだろうが、細々と続けていれば生き永らえていくだろう。少なくとも、ファンドのおもちゃにされずにはすむ。
 
 
 
 
では、果たして3人はどうすれば、よい(よかった)のだろうか。
 
ポイントはゲームチェンジャーになることであり、気がつかないうちに徐々に巨大組織を食い尽くすウィルスの戦略を取ることである。
 
例えば、大塚久美子氏は、店舗で、特定の営業マンが接客するスタイルを廃止した。本人が何度もメディアで述べているように、大塚家具は決してIKEAニトリのような安売り路線へ戦略転換するのでなく、接客型の営業が時代に合わないから廃止しただけである。
 
一見、正当なこの主張がまったく理解されず、大いに誤解されるのは、改革が中途半端だからである。営業スタイルを少し変えるだけでは革命でもなんでもない。国民が期待しているのは狡猾な老人との戦いであり、誤解した国民たちは暴走して、大塚久美子氏の思惑とは無関係にIKEAニトリに戦いを挑む物語を勝手に創造していく。
 
大塚久美子氏に配慮が足りなかったのは、この「人間は見たいものだけをみて、信じたいことだけを信じる」というこの習性に関する点である。多くの人にとっては、営業スタイルなんてどちらでも構わないのである。
 
本来、大塚久美子氏がやるべき革命は、単なる営業スタイルの変革以上の大革命であったように思える。
 
時代の流れに沿っていうと、彼女がやるべきだった革命とは、家具を売ることをやめることだったのではなかろうか。
 
そう、家具のサブスクリプションサービスである。
 
海外に行けば、一軒家の賃貸も家具付きという条件が多い。
 
嫁入り道具を一式揃えて一軒家に住むというマイホーム幻想が崩れてきているというのであれば、いっそのこと、家具はいつでもどこでも定額で交換し放題にすればよかったのではないだろうか。
 
世間にはいわゆる家具のサブスクリプションサービスというのはほとんどない。
あったとしても世間の認知が得られるほどのブランド力をもったサービスはない。
 
大塚家具、家具売ることやめるってよ
 
という大胆不敵なコンセプトは、新生大塚家具のイメージにふさわしい
 
藤田晋氏が勝負師として注目されるのは毎年200億円を突っ込んですべて赤字でも構わないというその思い切りの良さである。この腹の据わり具合は誰にも真似できない。
 
ここまで腹を括られると一人勝ちである。
 
大塚久美子氏にもここまで腹の据わったビジネスパートナーが見つかれば、まだ復活劇もありえるかもしれない。小池百合子氏は前原誠司氏というビジネスパートナーを得て改めてどこに向かうのかが問われている。
 
女たちの時代遅れの老人との戦いは世間の注目は浴びられるが、所詮、野次馬たちの物見遊山である。
 
本当に新しい地図と新しい家具と新しい政治を作ることができるのは新しいルールを作ろうとする起業家精神だけであろう。

 

宙を見つめて動かない老人の話

昔、中国に住んでいた頃。
 
その頃は、中国が今のようにアメリカに対抗する覇権国家になるというような段階ではなく、共産主義から目覚めた龍がまだ昇り始めるような時期だった。
 
日本の高度経済成長期のように、街中で建設工事が進み、常に街には埃が舞っていた。中国は平野が多く、空気が悪い。
 
1日中、街を歩き続けると、喉と目が痛くなり、シャワーを浴びると黒く汚れた汗が肌を伝って落ちていった。
 
中国の公園は面白い。
 
老人たちが集まって、将棋を打っている。
 

f:id:sekaim:20171102234706j:plain

 
 
その将棋を周りの老人たちが眺めながら寸評を行う。
 
中国の面白いひとつの現象が、何かイベントがあるとよってたかって見物客たちが集まり、ああだこうだと言い争いがはじまるところだ。
 
言い争いといっても、決して誰も手を出さずにあくまで口頭弁論で争うというのが中国のよいところだ。
 
こいつの打ち手はいい悪い。それはどうかな。その次にその手はないだろう。
 
アイヤー!ハオラ(好了)!メイウェンティ(没問題)!
 
ひとびと、つまり野次馬たちがくちぐちに論評し、笑いながら、声を大きく様々な主張を声高に訴える。
 
訴えの正当性が認められたほうが勝ちだ。
 
野次馬たちは多数決で言い争う。
 
天空の城ラピュタの中で、親父さんとドーラ一家の子供たちがお腹を殴りあったような場面である。
 

f:id:sekaim:20171102234844j:plain

 
ただし、ラピュタと違って、誰も相手を殴ったりしない。
 
日本とは違う中国の習慣を楽しみながら、いまでも忘れられない景色がある。
 
公園で、宙を見つめながらまったく動かない老人がいるのだ。
 
老人はただ、宙を見つめ考えている。
 
何を考えているかはわからない。
 
もしかすると、何も考えていないのかもしれない。
 
日本ではこういったひとはほとんどいない。
 
かつてはいたのかもしれない。
 
公園で宙を見つめ動かないひとがいると周りのひとは心配するだろう。
 
体調でも悪いんですか、大丈夫ですか、何をしているのですか。
 
動かないことで、まわりのひとは不安を感じ、ついつい声をかけてしまうのが日本社会だろう。
 
つまり、日本では、意味もなく、公園で宙を見ながら哲学的なことを考える自由すらないのだ。誰もが、仕事をしていないとおかしい。ホームレスさえ、あくせく働いている。
 
なぜ、なにもしない自由がないのだろう。
 
中国にそういった老人がいるのは共産主義の影響だろう。
 
共産主義時代、中国にはこういった老人がいっぱいいたにちがいない。
働こうが働くまいが給料は変わらないのであれば、さぼって宙を見ているだけで、給料をせしめたひともいっぱいいたに違いない。
 
それは、よいことか悪いことかはわからない。
 
中国は資本主義へ舵を切った。
おそらく、こういった老人が宙を見つめる自由もなくなっていくのかもしれない。
 
こういった老人は北朝鮮キューバにはまだいるだろう。
 
ブエナビスタソシアルクラブの、老人ミュージシャンたちの楽しそうな雰囲気。仕事なのか遊びなのかよくわからない曖昧な感覚で純粋に音楽を楽しむスタイリッシュな文化。
 
 
あの老人はなにをかんがえていたのだろう。
 
家族のことだろうか、宇宙のことだろうか。遠い過去の壮大な文明についてだろうか。やがて来る未来のことだろうか。明日、どうやって生きればよいかという苦しみだろうか。音楽のことだろうか。タバコがないからどうやってひとからもらえばよいということだろうか。
 
また、あの老人に会えるのであれば、聞いてみたい。
 
あなたは、いま、なにを考えて宙を見つめているのですか、と。
 

f:id:sekaim:20171102235840j:plain